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村上春樹 『猫を棄てるー父親について語るときに僕の語ること』を読んで。

文藝春秋6月号の、村上春樹のエッセイ 『猫を棄てるー父親について語るときに僕の語ること』読んだ。

エッセイというか、彼の小説なんじゃないかというくらい文学的で、『1Q84』以降、彼の作品に興味を持てなくしまったにも関わらず、このテキストは深く印象に残ったのだ。

このエッセイは、終始父とのエピソードを書いているが、同時に「ありえたかも知れないもうひとつの現実」を背後に漂わせながら語られている。

父と一緒に海辺で棄てたはずの猫が、家に帰ったらいるという奇妙な思い出、父が幼い頃、親に一度捨てられた話、僧侶でありながら兵士となった父が、死のきわにいた話、もしかしたら母は父とは別の人と結婚していたかもしれない話、高い松の木に駆け上って降りれなくなった猫の話…。などが繰り広げられた後、最後に村上はこういった文章を寄せている。

しかし腰を据えてその事実を掘り下げていけばいくほど、実はそれがひとつのたまたまの事実でしかなかったことがだんだん明確になってくる。我々は結局結局のところ、偶然がたまたま生んだひとつの事実を、唯一無二の事実とみなして生きているだけのことなのではあるまいか。言い換えれば我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。

(村上春樹『猫を棄てる』「松の木を上っていった猫」文藝春秋6月号2019年より引用)

「膨大な数」の雨粒の、名もなき「一」滴である我々の生は、「固有」ではあるけれど「交換可能」でもある、ということを言っているのだ。
ここで出てくる数字のメタファー、「交換可能」という記号性。生は数学のように扱えて、膨大な数あるもの。

しかし、村上は続けて、名も無き一滴には一滴なりの「思い」があり「歴史」があり、「それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある」という。

たとえそれがどこかにあっさりと吸い込まれ、個体としての輪郭を失い、集合的な何かに置き換えられて消えていくのだとしても。いや、むしろこう言うべきなのだろう。それが集合的な何かに置き換えられていくからこそ、と。
(引用元:上に同じ)

「集合的な何かに置き換えられていく」透明な生、だからこそ受け継いて行く責務がある、と。父の、あり得たかもしれない別の道を背景に置きながら人生を追う村上が、自分が今ここにいること自体が偶然であり「儚い幻想」のように思え、「自分自身が透明になる感覚」を感じながらも、だからこそ受け継ぐ責務、というのを感じるのだ。

召集解除され、フィリピンの戦線に送り込まれなかった父と、召集解除されず戦線に送り込まれた、父がかついていた部隊の仲間たち、前者は命拾いし、後者は命を落とした。ただの運としか言えないような差、意味はない。その無意味性にはある種の暴力を孕んでいる。

「降りることは、上がることよりずっとむずかしい」ということだ。より一般化するなら、こういうことになる──結果は起因をあっさりと呑み込み、無力化していく。それはある場合には猫を殺し、ある場合には人をも殺す。
(引用元:上に同じ)

これは、村上が幼い頃出会った、高い松の木に駆け上って降りれなくなった猫から得た教訓だ。「結果は起因をあっさりと呑み込み、無力化していく」、そこには、猫や人をも殺すほどの暴力性を潜めている。

膨大な数の雨粒の、名もなき一滴である私たちは、集合的な何かに置き換えられうる「交換可能な生」であり、しかしながら「固有な」生でもある。だからこそ私たちは歴史を語り、受け継ぎ、固有であることを確認し続ける。
それが唯一の、透明化する暴力への抵抗でもあるように。

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