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島では人の「生き死に」が近い距離にあるという話

瀬戸内海の家島という小さな島に10年ほど住んでいます。
大阪から移住し、観光ガイドなどをしています。

島で暮らしていて緊張感が高まる場面は救急車の音が聞こえた時だ。
とはいえ、家島の救急車の平均出動回数は1日1件前後なので、そんなに頻繁に聞こえるわけではない。

大阪にいた時は救急車の音が聞こえても気にしなかったが、島では「えっ、どこの誰がどうなったんやろ?!」とつい気になってしまう。
大抵の場合は知らない人であって何も起きないのだが、知り合いだった場合は「誰誰が運ばれたで~」と連絡があったり、通夜や葬式の日程について連絡がきたり、ということになる。

島には知り合いが多いといえばそれまでだが、何度か話したことのある人、見かけたことのある人、付き合いの深さは様々だが、知っている人が亡くなるというのは悲しいことだ。
「そういえばあの人、最近見ーへんな〜」という世間話のなかで知って絶句したことも何度かあった。
また島では、亡くなった人の周りにいる人が日常において気丈に振る舞う姿やそのなかにあるさみしさも見えるので、こちらもいたたまれない気持ちになる。
いくつもの死に触れても、人がこの世からいなくなるということが今ひとつ理解できない。
ふとした時に、これまでに触れた死について思い返すことがあるが、中でも心が痛むものがある。

年間を通して旬の新鮮な魚が流通する家島では「魚は刺身で食べるのが当たり前」で、干物を作る文化はほぼない。
唯一と言っていい干物が、冬に多く獲れるガンドガレイという魚を干した”干ガレ”。(広島や岡山の方ではデベラというらしい)
手のひらサイズでそんなに大きくなく骨も多いため、干したものをハンマーなどで叩いて焼き、身をむしって食べる。
漁師の家では、よく軒下に干されていたりする。

いつも僕が通る海沿いの道に、冬になると2階のベランダで洗濯物と一緒に洗濯バサミで干ガレを干している家があった。
何よりその光景が面白かったし、もし、島のガイド中にお客さんと一緒にこの家に立ち寄り、焼きたての干ガレをハフハフ言いながら食べるなんてことができたら、もっとお客さんに喜んでもらえるなるなあなんていう下心でその家を見ていた。
その家にはおじいちゃんとおばあちゃんが暮らしているらしいことはわかっていたが、話をしたこともなく、きっかけもないままだった。
「今日も靴下の横に干してあるなー」と2階のベランダを見ながら、その家の前を通る度に思った。
そして、ようやく機会が巡ってきた。
少し天気の悪いある日、その家の前を通った時、1階の縁側で網戸越しにおじいちゃんがステテコ姿で外を見ていた。
これは話しかけるしかないと思い「いつも干ガレ、干してるんー?」とかなんとか話しかけた。
「そうそう。いっぱい獲れるから」とか返事があって、横からおばあちゃんもそっと見守るように出てきた。
とっても仲の良さそうなふたりの雰囲気。
「また食べさせてもらいたいわ〜」とか二、三言会話をして、おじいちゃんがにこやかに「今シーズンはもう終わりやから、次の冬が来たらおいで。なんぼでも食べさせたるわー」と言ってくれた。
やったー!これでガイドツアーがより一層面白くなるぞなんて思いながら、次の冬が来るのを心待ちにした。
その家の前を通る時には、白い靴下だけが干されているベランダを見ては、楽しくおしゃべりしながら食べさせてもらう様子を想像しては心を躍らせた。

しかし、おじいちゃんには次の冬が来なかった。
秋頃に亡くなったということを人伝てに聞いて言葉を失った。
あのにこやかな笑顔、島の人と観光客の楽しい時間、僕が思い描いた全てが崩れ去った。
その後、家の前を通ると身体を丸めて家の周りを掃除するおばあちゃんを見かけた。
さみしそうな背中を見ながらもどうすることもできない自分がいた。
落ち着いた頃合いを見計らって、お仏壇に手を合わせに行きたいと思いながらも、でも実際に話をしたのはほんの数分で「誰やったっけ?」と言われたら、その説明もなかなか難しい。
お供えには何がいいんだろう。
やっぱりおばあちゃんの一人暮らしの家に上り込むのも悪いような。
おばあちゃんは受け入れてくれても、島で暮らしている他の家族に余計な心配をさせないだろうか。
というようなことを考えては、結局行けないまま自分の生活をするしかなかった。

冬が来て、もう干ガレが干されることがなくなった2階のベランダを見ては何とも言えないモヤモヤを抱えた。
そうして何度かの冬が過ぎていった。

ある日、港の近くで、あのおばあちゃんと、僕の子どもの同級生のお母さんが一緒に歩いているのを見た。
そういえば、そのお母さんはあのおばあちゃんと同じ名字だ。
だけど確証がない。
島の中に同じ名字はよくあるから親密さがわからない。

その日からモヤモヤがひとつ増えた。
なんとか確かめたいけれど、ずかずかと聞きに行く話でもないので、なかなかタイミングがなかった。
ようやく2~3か月後、子どもを幼稚園に迎えに行く道すがら、ちょうどそのお母さんと一緒になった。
いくつか世間話をしたあと、少し勇気をだして聞いてみた。
「〇〇さんって、あの海沿いの家の親戚になるんですか?」
「旦那の実家ですよー。」
「そうですか!!実は、少し会話させてもらって干ガレを食べさせてもらおうと思ったんですけど、亡くなられて。」
「おばあちゃんも中西さんのことで干ガレがどうとか言ってました。」
「手だけ合わせにいかせてもらっていいですかね?」
「もちろんです。喜ぶと思います!」
「よかった。いや、知らない人が急に来たらびっくりするかと思って・・・。」
「いえいえ中西さん有名人ですから知ってますよ~。」
と、ちょうどここで幼稚園に着いた。
最後のところだけを聞いた別のお母さんから「こないだもテレビ出てましたね~」と言われ、自分でもわかるほど下手くそな愛想笑いをしてしまった。
”ようやく堂々と手をあわせに行ける機会を得ることができた”という心からの喜びを抑えながら、自分では特になんとも思っていない”テレビに出た”ということの一応の喜びとを表現しないといけないと思ったから。

数日後、夕方に家を訪れると、息子さんが訝しげに出てきたので「少し手を合わさせてもらいたいと思って」と言うと奥からおばあちゃんが「誰やろう」と出てきたので、少し大きめの声で「中西です。手を合わさせてもらいたいと思って」ともう一度。
おばあちゃんは少し驚いて「中西さん!いつも見てるよ。家島でよー活動してくれて。こんなところやけどどうぞ。すみませんねえ。実は中西さんには話したいと思ってて。干ガレのことで。」と。
まだこちらは手も合わせてないので、手を合わせてから一呼吸。
「そうなんです。僕もずっとひっかかってて。」と言うと、おばあちゃんもよく覚えていて「おとうさんが今シーズンは終わりやからまたおいで~って言うたから、あのあと、ここで食べさせたったら喜ぶやろなあ。っていう話を二人でしてたんよ。だけど急に。ほんとに急に亡くなってしまって。この間7回忌が終わったとこなんよ」
「もう7回忌ですか!そうか。もうそんなに・・・。」
「そう・・・。」
僕もおばあちゃんも泣いた。
あの日から、そんなに時間が経っているとは思っていなかった。
あの時の会話を今でも覚えていてくれたことが嬉しかったし、僕のことを認識してくれていることも嬉しく思った。
少しの沈黙のあと、「中西さんが来てくれたからええ格好して言うわけじゃないけど、いつも家島のために活動してくれてるの知ってる。新聞記事は全部おいてる!ありがとうね。」と、そのあと色々話してくれたけど、安堵の気持ちと高揚感でぼんやりしていて、あんまり会話が入ってこなかった。
自分が応援されていることはわかった。

その時、思い出していた。
島にある企業の人から少し前に『中西くんは島のおばちゃんたちには人気があるけど草の根活動すぎる』『もっと力のある人を上手に使って、政治的な動きをうまいことしたらええのに』と言われたこと。もっと商売も上手にして売り上げを伸ばさないといけないと感じながらも『なんだかなあ』とモヤッとしたこと。
そして、そのあとにfacebookで特に面識のない島から出た人から「島の人がでけへんことをやってくれてありがとう!島の人はみんな感謝してる!!」というメッセージをもらったことも頭をよぎった。

家を出て、日が落ちて少し寒くなった島を歩きながら、これだけ応援してくれる人がいるならあまり難しいことを考えず、別に僕はこのままでもいいかなあと思った。


今では、おばあちゃんの家に行くと仏壇に手を合わせ、お下がりのお菓子をいただいている。
心の中のモヤモヤはなくなったけれど、でもやっぱりおじいちゃんと一緒に干ガレを食べたかったなと思いながら。


「家島の暮らしと観光客をむすぶ」いえしまコンシェルジュ
中西和也
http://ieshimacon.com


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