イケない妄想
たまにふと思う、私のファーストネームを呼び捨てで呼んでくれる数少ない友人たちの存在の貴重なことよ。親しみを感じて嬉しくなる。
しかし思った、自分で「○○と呼んでほしいです」と相手に伝えればいい話ではないか?頼まれてもいないのに要望を知ることは難しいし、頼まずして文句言うなと、という話では? (これも極端だけど) 察しろの文化ここに極まれり?
「私は親しみを感じる呼び捨てを欲しているのに察してくれない、いつも私をちゃん付けで呼ぶ。これは差別だ (or 基本的人権の侵害) だ。だからあなた達を訴えます」の登場
なーんて妄想をし始めた。こんな人が出てきたらどうしよう。あり得るのだろうか。
上ではたまたま女性をベースに呼び名問題の訴訟を脳内創作したのだが、その大きな理由の一つは、実際に起こってきた現代のフェミニストたちの姿が真っ先に脳裏に浮かんだことだ。ジェンダーが関わる各種問題は代表的な社会問題の一つだと思う。だから多分、記憶にかなり刻まれているのだろう。しかも現在進行中だし。いや、be doingというよりhave been doingか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?