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『ロゴスの市』との出逢い

私は、ある人に恋をしていた。本当は好きになってはいけない人に。それは、身を焦がすような、その人を想うだけで震えるような恋だった。
彼は毎週末、私に、私たちに、世の中の色々な事件や経済界の近況について教えてくれた。様々な物の見方があることを教えてくれた。その度に、彼自身の少し過激な意見も明示してくれた。私たちは、だから、自分ならどう考えるか、どう動くかについて思いを巡らすことができた。刺激的な時間だった。
彼の全てに惹かれた。お酒の話とシークレットなお仕事の話は、彼のミステリアスな魅力を引き立てた。彼は、お酒が好きな人だった。寝起きの酒、寝酒。論文を書くときは酒があると良いものができる。「悪酔いは好かん。酔うならありったけ飲んで、意識を失う方がええんやで」彼の口癖だった。京都で学生時代を送っていた頃の話に出てきた当時の彼女には、嫉妬してしまった。彼が階段を通る時間、彼が教室に向かう時間、全てに神経を集中させ、彼と遭遇することを願った。
彼と近付きたくて、毎回必ず彼のもとへ質問に行った。もっと彼のことを知りたくて、ある日、お薦めの本を尋ねた。その人が好む本を読むと、少しだけ、彼という人物の内面に足を踏み入れたような感覚になる。あながち間違ってはいないと思う。二人だけの共通の話題。それからというもの、毎週彼に本を紹介してもらった。読み終えると、必ず感想を共有しに行った。彼が教えたくれた本は全て、本屋に出向いて直接手に取った。高校生でも大学生でもない、身分の無い私。それなのに、本にだけはお金を費やした。本を探しているときは、まるで恋人にあげるクリスマスプレゼントを探しているかのような高揚感を抱きしめていた。
彼の薦める本は、ジャンルを問わなかった。その中に、たった一冊の恋愛小説があった。それが『ロゴスの市』である。彼にお熱だった私には、その本の内容が彼の恋愛観の一欠片にでも含まれているのではないかという過大な妄想を抱いた。購入したその夜、眠ることができずにその本を読んだ。
翻訳家の男と同時通訳者の女。全く正反対の気性を持つ二人が出会い、別れ、再会を繰り返す。その間にも時は流れる。まさに、刹那的な一生を前にして、ただ一方向に進むことしかできないもどかしさ。残酷な真実は、その到来を予感させずにただ二人を待っている。
哀しかった。二人の半生を傍観しただけなのに、二人が迎えるあまりにも狂おしい結末に自身の未来を重ね、胸が粉々に割れて散ってしまいそうだった。一方で、だからこそ、彼への恋を精一杯やりきろうと思えた。人生は一度しかないのだから。それから、私は最後の最後まで彼の授業に執着した。彼が担当する授業に申し込み、彼が添削を担当する課題には必死に取り組んだ。そして彼の直筆の言葉を宝物のように抱きしめて、何度もその文字を目でなぞった。
大学に合格した私が、予備校で真っ先に報告したかった相手は彼だった。だけど、慌ただしく故郷に帰らなければならなくて、それは叶わなかった。
今でも当時のときめきを思いだし、彼の近況を知りたくてたまらなくなる。でも、知りたくない気もする。いつまでも、記憶の中で輝く素敵な彼。ずっと、そのままでいてほしい。そんなの、きっと叶わないだろうから。
それは、年の差37の恋だった。

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