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【私的】和田毅ベストゲーム5選(前編)

 2022年のプロ野球は、佐々木朗希の完全試合を皮切りに東浜・今永のノーヒッター達成と空前の「投高打低」。そんな中でも我らが福岡ソフトバンクホークス投手陣は相変わらずの安定感で不調の打線をカバーし交流戦を五分で終えた。そんな投手陣においてチーム最年長の41歳でローテーションに君臨する男がいる。その名は「和田毅」。いわゆる「松坂世代」における最後の現役投手として走り続けるホークスの顔。私自身、幼稚園の頃から大好きで応援し続けている。そんな和田のベストゲームを、完全に独断と偏見で選んだので最後までお付き合い頂くとありがたい。なお前編ではMLB移籍までの試合をピックアップする。


1.2003年10月27日 日本シリーズ第7戦 vs阪神

 まずは2003年ルーキーイヤーの日本シリーズを挙げたい。前年ドラフトで、早稲田大学から自由枠でホークスに入団。ホークス入団の決め手は、秋山幸二の引退試合でのファンの温かさに感動したことだったという。シーズン開幕からローテーションに入り、北九州での西武戦でプロ初勝利を皮切りにいきなりの15勝。「大学No.1左腕」の前評判に違わぬ活躍を見せた。
 そしてルーキーイヤーの締めくくりは、日本シリーズ第7戦。勝った方が日本一に輝く「頂上決戦」だった。このシリーズにおいて和田は第3戦に先発登板している。6回を投げ金本に浴びたソロホームランの1点に留めたものの、チームは結果的にサヨナラで敗戦。そして和田本人も「調子が良くない」と関係者に漏らすなど、シーズンからの疲労は積み重なっていた。
 そんな中で巡ってきた頂上決戦のマウンド。登板前まで入念に筋肉疲労をほぐした和田は、初回にヒットとエラーでピンチを作るも4番・桧山を低めのスライダーで併殺に仕留める。5回までは毎回ランナーは出すものの、関本に浴びたソロホームランの1点に抑えた。和田の踏ん張りに打線も応え、松中の先制弾・井口の2ラン・城島の2打席連続弾などで6得点。迎えた9回、阪神は引退を表明していた広沢のホームランで意地を見せるもツーアウト。最後のバッター沖原を迎える。2ストライク1ボールからの117球目は、この日最速の137キロ。見事空振り三振に仕留め、センター方向へこぶしを突き上げた。
 試合後の和田は「終わったかどうかわからなかった。ジョーさん(城島)がガッツポーズをしていたので勝ったと思った」と話しており、極限の緊張・集中力だったことがわかる。高校・大学でなし得なかった夢の日本一を手にし、和田毅の伝説はここから刻まれることとなる。
 ちなみに、そんな試合の様子を当時3歳の私は内野席で見ていた。自分と同じ阪神ファンにしたかった父親の期待は外れ、私は見事にホークスファンとなった。そんな私も大学生となったが、未だにホークスファンとしてのスタートの日にマウンドに立っていた投手が第一線で活躍しているのは、改めてすごいことだと感じる。

当時のチケット

2.2006年9月6日 vs北海道日本ハムファイターズ

 2試合目は、通算50勝目を懸け挑んだこちらの試合。和田は、オリンピックや怪我などによる離脱があった入団2年目の04年、初の開幕投手を務めた05年も勝ち星を重ね3年連続の二桁勝利。早くもリーグを代表する左腕に登りつめた。私がこの試合を挙げた理由としては、この試合で見せたガッツポーズがかっこよくて(西日本新聞社刊のシーズン総括特集の表紙にも使われている)小さい頃よく真似していたというとても個人的な話なのだが、調べてみるとこの試合は和田にとって様々な意味が込められていた。
 2006年のホークス最大のトピックといえば、王監督の休養だろう。王監督が休養をナインに告げた際に最も号泣したのは和田だったそうだ。和田は帽子のツバの裏に「自分がやらねば誰がやる!」と書き込み、指揮官不在のチームを引っ張る覚悟を決めた。改めて確認しておくが、彼はこの時点で入団4年目の選手である。この時点から強烈な自覚と責任感の下、自らを鼓舞していたのである。
 また、和田はキャンプの時点でこの通算50勝達成を宣言し、他の記録よりこだわっていた。その裏には、同級生である新垣渚・杉内俊哉の存在があった。沖縄水産時代に150キロを記録しスターだった新垣、甲子園の舞台でノーヒッターを達成した杉内の裏で、甲子園出場は果たしたものの大きく騒がれることはなかった和田。そんな彼らより早く通算50勝を達成することは、自身の中で大きな意味を持っていたのだろう。
 試合は和田と日本ハム八木との投手戦が展開されていたが、4回に松中のタイムリーで先制。この日の和田にはこの1点で十分だった。安打は稲葉とSHINJOに許した僅か2本。130球・6奪三振の熱投で完封。見事に通算50勝を達成した。和田は「同級生2人と切磋琢磨しできる環境なんて、珍しいと思う。だからこそここまで頑張れた」とし、「たくさんの人に感謝します。でもこれで終わりじゃありませんからね」と決意を口にした。
 さらにこの1週間後の13日には長女が誕生。新たな決意を胸に、チームを引っ張る存在となっていく。

表紙のこのガッツポーズ!!かっけー!!

3.2009年4月3日 vsオリックスバファローズ

 3試合目は自身2度目の開幕投手を務めたこの試合。前年、北京五輪代表に選ばれるもメダルを逃し、シーズンにおいてもチームは屈辱の最下位に沈み14年間チームを指揮した王監督が勇退した。個人成績においても、入団以来継続してきた二桁勝利を逃し非常に悔しいシーズンとなった。
 そんな中迎えた2009年シーズン。シーズン前には第2回WBC日本代表の合宿に参加し早めの調整を行った。しかし、2月22日に最終メンバーからは落選。代表ユニホームや代表仕様のグラブ、スパイクを宿舎のゴミ箱に捨てた。しかし、そんな失意の中で同じく最終メンバーから落選した松中信彦からカラオケに誘われた。「今年は勝つぞ」とのチームリーダーの言葉に刺激され、決意を新たにチームに再合流した。
 そして3月12日のオープン戦試合前に秋山幸二新監督から開幕のマウンドを告げられた。和田は「秋山監督になってから最初の開幕戦。チームにとっても監督にとっても大事な試合」と意気込んだ。
 迎えた開幕の日。この日の投球を和田は後年のインタビューで「(投球の感覚が)すべてハマっていた。あの感覚は、1回きり」と語るほど、面白いようにストレートで空振りを取れた。8回までに奪った三振は13と完ぺきな投球を展開した。そして迎えた最終回、ラストバッターの3番アレックス・カブレラを空振り三振に切って取り試合終了。9回123球無失点。奪三振14は開幕戦でのプロ野球タイ記録と圧巻の完封劇だった。お立ち台では「WBCに落選してからこの日を目指して調整してたので、本当に嬉しいです」と普段冷静な受け答えの和田は珍しく興奮気味に語った。また、この日は妻・かすみさんの誕生日でもあった。落選をともに悔しがってくれた妻への最高のプレゼントとなった。


まとめ

 2009年は怪我に悩まされ自己ワーストの成績に終わるも、2010年には17勝を挙げ最多勝。リーグMVP・ベストナインにも輝きリーグ優勝に大きく貢献。翌年も16勝を挙げ満を持してMLBに移籍した。
 さて、前編はここまでとし後編はホークス復帰後の2試合をピックアップしたい。書いているうちにどんどん熱量が上がり、思ったよりもずいぶん長くなり見苦しい点もあったかもしれないが、最後まで読んでいただいたことに感謝したい。後編もぜひ☆


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