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「会社員からライターへ。未来インタビューで夢を切り開く!おくやま・ふみ」

 未来を夢みて
 今を生きる
 福島正伸

voicyラジオにゲスト出演した、おくやま・ふみさんを一言で表現すると、「横にいて居心地の良い人」。その証拠に、ZOOMで「初めまして」なのに打ち合わせも収録の合間も、こんなに話した人はいない。彼女とのラジオ収録時間は50分なのに2時間40分も話したのだ。収録の合間合間の時間、ほぼ俺が一方的に話してしまった。

おくやまさんはパーソナルライターであると同時にインタビュアーでもある。職業柄というより、もって生まれた才能なのか、「とても話しやすい人」という第一印象だった。Facebookで共通の友人が1人というのも今回が初めてにもかかわらず、彼女が好きな著者や講師は、ほぼ俺の友人という共通点があった。共通点を探すというのは、お互いの壁を瞬時に取っ払う特効薬なのかもしれない。

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「パーソナルライター」という肩書を初めて見た。おくやまさんは「その人本人のためだけに記事や文章を作成するライター」という意味で使っている。俺も、たった1人を振り向かせるために本を出版してきた。そのほうが、最初から不特定多数を感動させようと書いた文章よりも、多くの人の心に響くことをメルマガ・Blogで検証してきたからだ。また、目の前の人に対して「こんな旅があったのか」という歓喜を味わってもらうために旅の仕事をしてきた。22年経営していく中で登録隊員は3万人を超えた。

おくやまさんとvoicyラジオで対談するきっかけをつくってくれたのは、その1人で、隊員(かつての旅の参加者)で友人のトム(中根勉)

おくやまさんがトムを取材して書いた下記の2つの記事を読んで、彼女にインタビューしたくなってvoicyラジオのゲスト出演を依頼した。

連続放送1,020回目から1回10分、全5回のvoicyラジオ対談、フォローして聴いてほしい。

おくやま・ふみさんは東京都日野市生まれ。公立の小学校に通いながら副委員長に立候補するような積極的なタイプの女の子だった。夏はソフトテニスをやり、冬は器械体操をやるソフトテニス・器械体操部に所属した。

中学から私立の中高大一貫校に通い始め「井の中の蛙大海を知らず」心境になったという。初めて「私って普通なんだ」と思えた。両親の影響で小さな頃よりキリスト教のマインドを持っていたから、ミッション系の学校に進学するのに抵抗はなかった。写真部に所属し暗室で作業した経験が、今のライターの仕事に繋がってると思えた。デジタルカメラやスマホと違って、どんなふうに撮れているのか現像してみないとわからない。酸っぱい匂いのする赤ランプの暗室の中、「意外な一枚」が撮れているかワクワクしたのと同じように、今、インタビューしながら、目の前の人の「意外な一面」を知る楽しさと重なって見えたからだ。

中高一貫校だから基本的にクラスメイトは変わらなかった。軽音部でベースを担当した。初心者でもわかりやすい、「タブ譜」を見ながら習得した経験は自分の中では大事な要素になったという。演奏しながら、「バラバラで一緒」、「調和」、「後ろから支える」を考える、そんな要素が今でも活きているように感じた。

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そんな中、高3で交通事故に遭い左足首を脱臼、3ヵ月の入院生活になってしまった。大学までの一貫校とはいえ、9月末に大学の推薦が決まる大切な期末試験があった。友人たちがノートを送ってくれたり、試験日は父親が会社を休んで学校まで送り迎えしてくれたおかげで進学できた。意気消沈している時、仲間や家族のありがたみが身に染みた。

大学に進学すると、再び写真部に所属した。ハンドベルサークルにも入ってリーダーを務め、組織運営の大変さを経験した。就活時期は、社労士の資格を取ろうと勉強に励み、人事労務コンサルをやっている会社に就職した。自宅のある八王子から仕事先の品川まで、3年間、ほぼ終電まで働き身体を壊した時、出会いがあって結婚と同時に会社を辞めた。

ずっと実家暮らしだったため、「実家から独立したい」という思いがあり、結婚と同時に旦那さんの実家がある福島県会津若松市に住むことになった。結婚した翌年、息子さんが授かり子育てに専念する日々が続いた。市の子育て支援のイベントにいくようになり、県外から嫁いできたママたちと子育てサークルを立ち上げた。キリスト教の同じ宗派の教会があり、教会の運営する幼稚園に息子さんが通うことになった。

「実は子供が好きじゃなかった!自分が子供を産んで育てていく過程で母性に目覚め、子供に対する見方が変わり、今は子供が大好き!」という。冬の会津若松市は雪に覆われ、誰とも話ができない閉塞感の中、おくやまさんは、子育てBlogを書き始めた。情報発信すると、共感してくれる人ができて、いろいろなママと繋がった。自分をさらけ出すのは勇気のいることだが、思いを発信しないことには何も始まらない。この経験がライターとしての原点だ。

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おくやまさんは息子さんが3歳の時、半年の別居生活を経て離婚した。「せめて子供が大きくなるまで」と考えたこともあったが、自分の中の決意は固かった。泣いたり怒ったり夫婦喧嘩が絶えない両親を見て育つより、「子供にとっての幸せとは?」自分に問い続けての結論だった。「子供のために離婚は良くない」は正論だが、俺は今、「幸せな離婚」ってあると思う。おくやまさんは、「離婚という言葉を躊躇しないで言える時代になった。意外と世間は優しい」と言う。その渦中にいる時は辛い思いをしても、おくやまさん自身も、今、自分の中で消化しているから話せるのだ。今となっては、別れた旦那さんに対して、「息子を授けてくれてありがとう」と感謝している。

会津若松市から東京の実家へ戻った。父親はいなくても、おじいちゃん、おばあちゃんに温かく育てられたから、明るく友達の多い子になった。「定年まで働く!」つもりだった13年間勤務した会社を、なぜ、辞めたのか?辞めるきっかけは、中2の冬から息子さんが学校へ行かなくなったこと。先生と面談したり、ソーシャルワーカーに相談したり、保護者会に行ったりしたが、原因がわからない。結局、中学卒業まで学校へは行かなかった。

「経済的自立しなきゃいけない!」1人で子どもを育てることへの気負いがあった。「息子を学校に行かせなきゃ」そればかり考えていた。でも、息子に言う前に、「私って自分の人生、生きてる?」と自問自答した。「自分が本当に望むもの、どういう生き方をしていきたいか?矢印を向けるのは子供に対してではなく、自分なんだ」って。そんなことを考えている最中、会社から早期退職制度の話になった。「コレだ!今だ!」と直感があった。去年3月に、会社を辞めた。

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「カフェを開きたい!」という漠然とした思いがあった。商工会議所でやっている起業セミナーを受けたり、カフェ巡りもした。穂高養生園に行ってリトリートプログラムにも参加した。でも「どういうカフェをやりたいのか」具体的なイメージはなかった。そんな時、ひすい こたろうさんの予祝インタビューの本を読んで、自分の未来を想像して記事にしてみた。すでにカフェをやっている自分をイメージすると、二胡でコンサートをやる、こんなシステムで運営する・・・スラスラと書けた。そこでモニター募集して「なりたい自分、なりたい未来」をインタビューすると、大きな反響があった。

おくやまさんは、自分が自分らしくいられる場所を、ずっと探して来た。だから、文章でも、リアルの場でも、そんな場所を見つけるために活動を続けて行く。自分自身も含めて、誰もが、自分の本当の居場所を探す長い旅の途上にあると思えた。ゴールなんてない人生、その過程を楽しみながら歩んでいきたい。

未来インタビューで誰かの夢を切り開くことが、おくやまさんの夢に直結している。そんな、おくやまさんが、今、未来インタビューのクラウドファンディングを、昨日の10/27より開始した。このチャレンジを応援したい。未来インタビューにどんな効果があるのか、モニターの制作事例、リターンなど詳しく紹介している。詳細は下記をクリック!これを読んで応援・支援したくなったら、是非。

 最後に中島は自身のありたい姿を
 得意の例え話で こう話した
 利他っていうのを考えるときに
 僕は・・・と思ったんです
 「沿うこと」がとても重要で
 相手に沿いながら その人のポテンシャルを
 引き出される時に とても重要な瞬間がある
 NHK「のど自慢大会」・・・
 あの番組の主人公はバックミュージシャン
 あのバックミュージシャンのようになりたい
 政治学者 中島岳志 「UA×中島岳志 EP2」
 NHK Eテレ「SWITCHインタビュー達人達」


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