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【眠らない猫と夜の魚】 第20話

「猫と魚」②


「またお前か」

 赤い目の波流は、興味なさそうに言った。
 境内を埋める猫たちとともに、赤い瞳で瞬きもせずに私を見ている。しばらく待ったが、自分から話すつもりはなさそうだった。
「……波流」
 試しに声をかけたけど、無反応。
「……じゃないんだよな?」
 そう付け加えると始めて、フンと短く鼻を鳴らした。暗くてわからないけど笑ったようだった。
「……波流じゃないなら、誰だ」
「猫だよ」
「猫?」
「そう、猫。夜の中でしか生きられない、弱い生き物だ」
 反応を楽しんでいるのか、からかうような声だ。はぐらかされているような物言いだけど、何となく真実を語っているような気がしなくもない。
「その猫が……どうして波流の体に入ってる?」
「この体でやることがあったからだ。別に誰でもよかったんだけど、そうだな、あの場にいた人間からこいつを選んだのは、巫女だったからだ。巫女ってのは憑坐だし、役とは言え、こいつにはその資格があるように見えた」
「……巫女? 夏祭りのことを言ってるのか?」
 夏祭りの奉納演劇のことを言っているのだとしたら、こいつはもう一年近く、波流の体にいることになる。
 だとしたらやっぱり、こいつは夜歩きに関わっている。
「やることが終われば返すつもりだったよ。でも未だに居座ってるのは、思った以上にこの街が酷いことになってたからだ。それに」

 波流は床を蹴って飛び上がると、拝殿を囲む古い木の柵の支柱の上にふわりと着地した。
 両腕を広げてバランスをとりながら柵の上を歩くと、いきなりその場で空中に身を躍らせ、綺麗な弧を描いてもとの位置に着地した。

「こいつの体の居心地がよかったからだ。猫が棲むには、理想的だな」
 波流は体の操縦を楽しむように、柵の上で回転したり、後ろ向きに歩いたりしている。
「……理想的? 波流が他のやつと、何が違うんだよ」
「こいつの中には、夜がある」
「……夜?」
 波流は私を見て、赤い目を細めた。

「お前、こいつにとってこの世界は生きやすいと思うか?」
 言葉に詰まる。急な話題に面食らっただけじゃない。その言葉をすぐに肯定できなかったからだ。
「……それが、今の波流の状態と関係あるのか?」
「あるよ。わかってるだろ、こいつが生きてるこの世界はこいつに優しくない。今日だってひどいもんだったじゃないか」
「……確かにクソみたいな奴はいるよ。そいつらの悪意が波流を傷つけてきたことも知ってる」
「悪意? そんなもんじゃない。あれは呪いだろ」

 波流の声が冷たく尖った。
 月が翳って境内に闇が落ちる。
 波流の赤い瞳が、炎のようにゆらりと瞬いた。

「……呪いだって?」
「大袈裟だと思うか? そんなこと、お前らはいつもやってるじゃないか。誰かを妬んで、蔑んで、羨んで、憎んで。そうして自分の中で膨らんだ負の感情を、押さえきれなくなった悪意を、他人に押し付けたいと願う行為こそが、呪いの本質だろ」
 波流はそこで言葉を切ると、手のひらを胸に置いた。
「そういうものから身を守るために、こいつの中には夜がある。言っておくが私が作ったものじゃないぞ。もともとこいつの中にあったんだ」
「……何の話をしているかわからない」
「こいつは私が入るよりも前から、この世界の生きづらさをずっと感じながら生きてきたんだよ」

 似たようなことは、小夜も言っていた。
 波流は昔から人と関わることを避けていたって。うまく周囲と関係を築けず、疎外されているように見えたって。巫女の役も、誰かから押し付けられたんじゃないかって。

「……確かに、お前の言う通りかもしれない。ここは波流にとって生きづらい世界なのかもしれない。でも、波流を追い詰めるような奴らばっかりじゃない。素子さんだって、小夜も水鳥も亜樹だって、波流の周りにいる人間はみんな、逆だ。そういう悪意から遠ざけて、波流を守ろうとしてきた。そうしてきたつもりだ」
「知ってるよ。見てきたからな」
 波流の声は優しかった。徒労に終わった行為を慰めるように。
「でも逃げられないよ。この街じゃ」
「……どういうことだ?」

「……邪魔だ。ムカつく。殺したい。いなくなればいいのに。死ねばいいのに。そんな悪意は、お前らの世界じゃありふれてる。そんなことは日常的に考えてる。考えない奴のほうが異常だ。そう言えるくらい。
 でもそんな悪意はすぐに消える。次の瞬間には、お前らは悪意を抱いたことすら忘れて、何食わぬ顔で別の話題で笑っている。
 それで終わると思うか?
 忘れてしまえばなかったことになるって? 
 普通の街ならそうかもしれない。でも、この街は違う。

 この街じゃ、心に生まれた強い思いは、体を離れて夜に浮かぶんだよ。

 悪意も殺意も怨みも全部、お前らが忘れただけで、消えずに夜を漂ってる。そういう厄介な呪いが、この街にはかけられてるんだ」

「……言ってる意味がわからない。そんなもの、いったいどこに浮かんでるっていうんだ」
「そんなに見たいなら、見せてやるよ」

 波流が唇がぐにゃりと釣り上がったように見えた。

 次の瞬間、焼けたナイフを差し込まれたような、尖った痛みが両目を貫いた。眼球を炙られる激痛に、両目を手のひらで押さえつけて、それでも堪えきれずその場に膝をついた。両目から溢れた涙が押さえつけた手の隙間からパタパタと溢れる。

「――――――――――――!!!」

 目を潰されたと思った。それで出血したんだと。そう思ったのは、指の隙間から見えた空が赤く滲んで見えたからだ。
 でも違った。赤いのは私の目じゃなかった。
 魚だ。
 赤く光る魚が、境内の空いっぱいに、渦を巻いていた。

 *

 魚のうちの一匹が、群れを離れて地面に近づいた。しかし近くにいた猫が威嚇の声をあげると、素早い動きで渦の中へ戻って行った。

「だいぶ増えたな。早いところ穴を塞がないと」
 波流は柵の上から飛び降りて、地面に置いていたリュックを手に取った。リュックがガチャガチャと硬い音を立てる。
「……待て! まだ波流を返してもらってない」
 痛む目を押さえながら、何とか立ち上がる。
「ここにはいない。知ってるだろ? 私がこの体を使ってるとき、あいつは夜を歩いてる」
「……お前が追い出してるんじゃないのか?」
「違う。猫は人間が眠ってる間に体を動かすだけだ。別に魂を追い出したりしない。でもあいつは私が体を動かしてるとき、体を離れて夜を歩く」
「波流だけ? どうして……波流だけにそんなことが起きるんだ」
「さっき言っただろう。この街では強い思いは体を離れて空に浮かぶって」
 そう言って波流は空を泳ぐ魚を見上げた。

「あいつには、この体から逃げたいっていう強い思いが、ずっとあったんじゃないのか」

 体から力が抜けた。
「波流が……そう言った?」
「言わなくてもわかる。あいつの中にいるんだからな。自分が体を離れてるって自覚したみたいだし、もう戻ってこないかもな」
「戻ってこなかったら……どうなるんだよ、波流は」
「どうもならない。この体は私が使う」
 温度のない声で猫が言う。
「そうじゃない! 波流は、波流の意識はどうなる?」
「いずれ夜に溶けるだろうな。それか呪いに食われて消えるかだ。いずれにしてもあいつは消えるよ。人間の心は、夜の中で自我を保てるほど強くはないからな」
「だったら、今すぐ波流をその体に戻せ!」
「それがあいつの望んでることかもしれないぞ」
「波流は……波流はそんなこと、望んでない」
「お前にあいつの何がわかる」
 波流の瞳がすっと細くなる。

「それは、お前の勝手な思いだ。手前勝手な幻想だ。優しさでもなんでもない。自分の希望を押し付けて、やりたくもない努力を強いてるだけだ。そんなものは、呪いと変わらない」

 否定したかったけど、何も言い返せなかった。
「それでも探すなら勝手にしろ。魚になって街のどこかに浮かんでるはずだ。もしかしたら村に迷い込んでるかもしれないけどな」
「……村?」
「今夜は魚が多い。ふらふらしてるとまた村に迷い込むぞ。この前は情けで助けてやったけど、次はない。目はじきに戻るから、諦めて帰れ。自分まで夜に飲み込まれたくなかったらな」
 押し付けるようにそう言うと、波流は地面を蹴って私の頭の上を軽々と飛び越えた。
 振り返っても茂みが揺れているだけで、波流の姿はもう、どこにもなかった。あれほどたくさんいた猫も、一匹残らずいなくなっていた。

 *

 夜の神社にひとり。
 波流も、猫もいない。
 残されたのは空を渦巻く赤い魚と、それを見ることができる目だけ。
 神社を囲む木の隙間から街を見下ろすと、街の夜空のあちこちに、赤い魚が瞬いているのが見えた。

 あれが人から離れた呪い?
 その中のどれかが波流?

 波流の姿をした猫は、波流を見つける方法も、探してからどうすればいいかも教えてくれなかった。
 だけど、探さないわけにはいかない。
 目の痛みは続いている。それどころか熱に侵されたように足元がおぼつかない。よろよろと石段に足を踏み出したけど、途中で強い耳鳴りに襲われて足を踏み外した。10段ばかり石段を転げ落ちて、階段脇の藪に突っ込む。
 ほっぺたから地面に叩きつけられて、口に泥が入った。唾を吐きながら手足を見ると、擦り傷と赤土だらけになっていた。

 ……赤土?

 嫌な予感がして空を見上げると、案の定そこには月も星もない、のっぺりとした赤が広がっていた。
「……またかよ」
 嫌になって赤土の上に寝転がった。
 こないだ水鳥と迷い込んだ、赤い空の世界だ。
 しかも、目を与えられたおかげでよくわかる。さっきまでの比じゃないくらい、夥しい数の魚が空を泳ぎ回っていた。魚たちが立てているのか、尖った耳鳴りのような音が空いっぱいに響いて、耳が痛いほどだ。
「なんか今日、散々だな…………ハハッ」
 最悪すぎて笑ってみたら少し気分が上向いた。寝転がったまましばらく笑って、大きく息を吐いて肺の中の空気を入れ替える。
「……おし」
 気合の声をともに立ち上がった。
 もう二回目だ。パニックはない。途方に暮れている場合でもない。
 どうするにしても、まずは今の状態を確認する必要がある。波流を助けたいんだったら、なおさら。

 木の隙間から見下ろすと、海岸線が見えた。
 海岸線の形は覚えがある。見慣れたみたま湾と同じ形だ。逆側にある山も、普段目にしている山の形と変わらないように見える。
 市街地があるべき場所には建物はなく、見渡す限り背の高い草地が広がっていた。よく見ると隙間にはうっすらとあぜ道のようなものが見える。草原でなく、田んぼに草が生い茂ったもののようだ。あちこちに木でできた粗末な荒屋が点在していたが、人の姿はなかった。
 動くものの姿は何もない。動いているのは魚だけだ。赤い魚は、あちこちで巨大な群れを作ってゆっくりと空を回遊している。

 海、山、川、みたま市を形作るものはほぼそのままだ。でもそこに収まる中身が全然違う。つまりここは、みたま市であってみたま市ではない。
 怪異的な解釈を恐れずに言うならば、未来か過去か異世界か。それ以上の考察は、現時点では難しそうだ。

 とにかく、波流を探さないと。でも、魚の中から波流を見つけ出す術が何もない。よろよろと階段を降りながら、猫の言葉を頭の中で再生する。もしかしたら、言葉にどこかにヒントになるようなものがあるかもしれない。

 そう言えば……猫はこう言っていた。

「いずれ夜に溶ける。それか呪いに食われて消えるか」

 呪いに食われる。呪いというのは猫の言葉を信じるなら、あの空を泳いでいる赤い魚のことだ。ということは、あの魚が集まってるところを探せば、そこに波流がいるかもしれない。ヒントというにはあまりい頼りなさすぎるけど、他に縋れるような仮説もなかった。
 もう一度眼下に目を向けると、街のあちこちで赤い魚の群れが渦を巻いているのが見えた。

「……端から当たるしかないか」

 やることを決めてしまったら少しだけ気分が楽になった。体調は最悪に近いけど、気合いならどうにか絞り出せる。

 道場で背負ったときに背中にぎゅっとしがみついてきた、頼りない波流の手の力を思い出す。
 体を血が巡って、頭の痛みが少し遠ざかった。

 よし、いける。

 自分に言い聞かせるようにそう呟いて、残っている体力をかき集めて、階段を駆け降りた。

(第21話に続く)


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