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【眠らない猫と夜の魚】 第7話

「神様が眠る時間」③


 硬い、土の地面を掘る。
 道具はなく、指先で。
 尖った石で皮膚が裂け、爪が剥がれる。
 血だらけになった指で、それでも掘り続ける。
 掘りながら、周囲に目を走らせる。
 見つかってはいけない。
 絶対に。
 その思いだけが、強く頭にある。
 微かな物音がして、手を止める。
 息を殺して、闇の中を見回す。
 見つかってはいけない。
 見つかってはいけない。
 見つかったら――

 ――殺さなくちゃ。

    *

 自分の喉が息を呑む、笛のような音で目が覚めた。

 耳元で早鐘のように心臓が鳴っている。
 ここは……自分の部屋の、布団の中だ。
 体を起こして、薄闇の中でまず指先を確認した。爪はちゃんとある。血も流れていない。

 夢……ただの夢だ。上体を起こしたままで息を整えていると、襖が少し開いて亜樹が顔を覗かせた。

「……大丈夫? うなされてたけど」
「私、うなされてた?」
「少しだけ」
「なんか、怖い夢見ちゃって」
「水でも飲む?」
「うん。ああ、そっち行く」

 布団を出て居間に行くと、ちゃぶ台に読みかけの本が伏せてあった。その横には日本酒の四合瓶と切子グラスが置かれている。

「これ、飲んでもいい?」
「いいよ」

 グラスに半分くらい残っていた日本酒を一気に胃に送り込む。張り詰めていた意識が弛緩して、夢の余韻が薄れていく。それから亜樹が差し出してくれた水を飲み干すと、ようやく気分が落ち着いた。

「どんな夢を見たの?」
「んー、なんか、地面を掘る夢」
「どこを掘る夢?」
「夢だし、暗くてよくわからなかったけど……なんとなく、神社の境内だったような気がする。神社の噂のこと調べてたから、そんな夢見たのかも」
「珍しいね。怖い噂を調べるのはいつものことなのに、今日に限ってそんな夢見るなんて」
「ホントにね。昼間に怪我したせいで、気が昂ぶってたのかも」

 包帯が巻かれたままの手をひらひらと振ってみせる。亜樹は「そう」と言ってから、しばらくの間、私の手をじっと見つめていた。

    *

「朱音、痩せたよね?」
 向かいの席から、小夜が心配そうに聞いてきた。
「そうかな?」
 答えながら頬に手を当てる。特にやつれたような感じはしなかったけど、指先に触れる頬はいつもより乾いているような気がした。

 昼下がりの大学喫茶・ラグーンのウッドデッキ。揃って授業が休講だったので、小夜の要望で甘いものを食べに来たんだけど、私はなんだか食欲がなくて、珈琲しかオーダーしなかった。

「痩せたっていうか、なんか疲れてる感じする。ちゃんと食べてる? 食べれるなら、これ食べな?」
 水鳥がガトーショコラのお皿をこちらに寄せる。ラグーンのガトーショコラは私のフェイバリットスイーツのひとつだけど、今日は食べる気が起こらない。無言で首を振って、お皿を水鳥に戻した。
「なんか疲れが取れなくてさ、家でもあんまり食べれてないんだよね」
「やっぱり、例の夢のせいじゃん?」
「そうなのかな」

 夢。

 神社の境内を掘る、いやな夢。

 最初にあの夢を見てから1週間、夢は毎晩続いていた。夢の内容はほとんど変わらない。神社の境内で、何かに怯えながら穴を掘る夢だ。
 見始めた頃は割と楽しんでいるつもりでいたのだけど、だんだんと体調が悪くなってきた。あれから神社のことは特に調べていない。にもかかわらずあんな夢を見てしまうのは、頭のどこかで神社の噂を意識しているからだろうか。

「熱はない?」
「ないんだけど、体がやけに冷えるんだよね。パワーが落ちてるのかも……。水鳥、パワー送って」
「よしきた」
 水鳥がスマホをいじる。しばらくするとLINEでなかやまきんに君のスタンプが送られてきた。思わず吹き出す。笑ったのは、ひさしぶりな気がした。
「食欲なくても、ちょっとは食べたほうがいいって。食べるもん食べないと、怪我も治らないわよ」
 小夜が私の手の甲の包帯を見ながら言った。確かに、そんなに深い傷でもないのに、怪我の治りが遅い気がする。
「それ、亜樹にも言われた。頭ではわかってるんだけどさ、どうにも胃が受け付けなくて」
「そう言えば亜樹くんは? 亜樹くんも休講じゃないの?」
「みたまストアで食材買うって、帰った。いつもなら週末にまとめ買いするのに」
「朱音が食べれそうなものを作ってくれるんじゃないの?」
「そうなのかも」
「なんだかんだ、心配されてんじゃん」
 水鳥が茶化すように言う。
「表面上はいつもと変わらないように見えるけど」
「足りなきゃ、あの子が心配してくれるわよ。そう言えば、今日はあの子、見ないわね」
 小夜が中庭に目を向ける。つられて中庭のほうを見ると、ベンチには誰も座っていなかった。

    *

 目の前の地面に穴があいている。

 暗くてよく見えないけど、
 その穴の中に何かがいる。
 闇の中で微かに蠢きながら、
 赤い瞳でじっと見上げてくる。

 風の音がうるさい。

 いや、風の音じゃなくて、
 私の喉が立てる、荒い呼吸の音だ。
 呼吸はどんどん早くなって、
 私の意識をさらに追い詰める。
 その焦燥を振り払うように、
 手の中の石をきつく握った。

 見られてしまった。

 見られてしまった。

 見られたら……

 粘ついた唾を飲む音が、
 夜の神社に響き渡る。

 私は大きく息を吸い込むと、
 石を持った手を振りかぶった。

 殺すしか、ない。

 目を閉じて、穴に向かって手を振り下ろす。
 同時に、穴の中の何かが掠れた声を上げた。

 ――にゃあ。

      *

 飛び起きた。文字通り、バネのように上体を跳ね起こす。起きるときに何か叫んだような気もするけど、覚えていない。跳ね飛ばされた布団は足元まで飛んでいた。胸が痛い。手を当てると、心臓がありえないほど早く動いていた。

 カーテンの隙間から覗く空はぼんやりと明るい。夜明け前のようだ。そのままもう一度眠る気になれなくて、居間に出た。

 居間は電気が消えていて、亜樹の部屋の襖から漏れる光もなかった。シャワーを浴びようかと思ったが、思い直して走ることにした。汗といっしょに夢の残滓を流してしまいたかった。

 亜樹を起こさないようにそっと着替えて外に出る。空はどことなく黄色がかった色をしていた。朝なのに夕方みたいな、ぼんやりとした空だ。風がなくて空気が生ぬるい。いつものコースを走り始めたけど、そんなに早朝でもないのに人がいない。結局、夜見神社の前を通りかかるまで、誰ともすれ違わなかった。

 神社に続く鳥居の前で足を止め、石段を見上げる。あんな夢を見るのは、やっぱりここが気になってるからだろう。呪いの話なんて聞いたから、なおさら。いったん足を踏み入れて何もないことを確認できたら、夢を見なくなるかもしれない。
 そう思って石段に足をかけた。夜ならともなく、朝ならいいだろう。

 神社はこないだと変わらず、静かに佇んでいた。神社の周りをぐるりと回ってみたが、特に変わったことはない。

 あの夢は、やっぱりここが舞台なのだろうか。

 この境内に何かを埋めた、誰かの夢。

 夢の情景を思い出そうとして、やめた。この場所で想像してはいけない。そんな気がした。

 帰る前にお参りしようと思って、神社の正面に回った。柏手を打って目を閉じる。昨日、亜樹が私の好きなピェンローを作ってくれたけど、少ししか食べれなかった。
 昨日だけじゃない。この一週間ずっと、亜樹は私のことを気遣ってくれている。あんまり表情には出さないけど、それくらいわかる。好きな人のことだから。

 今日は私がご飯でも作ろうかな。亜樹より美味しいご飯なんて作れる自信はないけど。でも感謝の気持ちを表すには、それくらいしか思いつかない。

 うん、そうしよう。
 決心してから目を開くと、夜になっていた。

 一瞬、状況がわからなくて思考が停止する。
 目の前の闇の中に、社殿がうっすらと浮かびあがって見える。見上げた空はまだ深い蒼色で、散らばった星の中心に、目玉のような月があった。

 なんで?

 どうして?

 理由はわからないけど、ともかく。

 私は、真夜中の神社に立っていた。

(第8話に続く)


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