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【眠らない猫と夜の魚】 第8話

「神様が眠る時間」④


 ――ひゅっ。

 背後から、乾いた呼吸の音が聞こえた。

 振り返ると、石段の手前に白いワンピースを着た女が立っていた。うなじを冷たい手で撫でられたように、全身を寒気が走り抜ける。

 垂れ下がった前髪で隠れていて女の顔は見えない。無防備にだらんと下げた両手は、泥にまみれて真っ黒だった。

 生きた存在ではない。直感的にそれがわかった。

 思念、生霊、もしくは、それに近いもの。

 まずい、どうしよう、どうすればいい?
 疑問だけがぐるぐると頭を回って、何も考えられない。その場で固まったまま、女を見つめ続けることしかできない。

 女が一歩、足を踏み出した。

 途端に、周囲の空気が重くなる。まるで、空中を見えない何かが飛び交っているように、空気が粘性を増した。同時に、濃密な血の匂いが鼻をつく。穢れと禁忌を纏った、粘ついた血の匂い。

 この女、ここにいったい何を埋めた?

 手が、武器になるものを探して無意識に動く。でも使い慣れた竹刀は手元にない。あっても、この女に通用するとは思えない。

 もう一歩、女が足を踏み出した。

 髪の間から、掠れた呼吸の音が聞こえてきた。いや、呼吸の音じゃない。なんて言っているかわからないけど、これはたぶん、私を呪う呪詛の声。

 胸が痛い。
 痛みで視界が歪む。
 息ができない。

 目尻に涙が浮かんで、少しでも気を抜くと、意識の糸が切れてその場に倒れてしまいそうだった。

 これは……まずいかもしれない。

 諦めの言葉が浮かんできて、無意識に後ずさった足が、柔らかな何かに触れた。

 ――にゃあ。


 途端に、場を支配していた濃密な気配が霧散した。

 胸の痛みが溶けるように消えて、急に呼吸が楽になる。前に目を向けると、ワンピースの女はどこにもいなかった。血の匂いも、空中を飛び交っていた何かの気配も、嘘のように消えていた。

 足元を見ると、茶トラの猫が脛にすり寄っていた。猫は今しがた起きたばかりのように順番に手足を伸ばしてから、大きなあくびをした。

 これ以上出ないくらい大きなため息をついて、足元に座り込む。猫は図々しく私の足の上に乗ってきて、顔に鼻先を近づけてきた。その顎先を撫でながら、ようやく私は理解した。

 そうか。

 神様が、目を覚ましたんだ。

     *

 ジャージのポケットには、何故か煮干しが入っていた。私はこんなもの入れた覚えはない。だとすると、亜樹だろうか。猫は、煮干しの匂いにつられて起きてきたらしい。

 石段に腰掛けて猫に煮干しを与えているうちに、空の端っこが明るくなってきて、ようやく安心する。朝がこんなにありがたいと思ったのは初めてだ。

 煮干しもなくなり、そろそろ帰ろうと腰を上げたとき、誰かが石段を登ってくるのが見えた。思わず身構える。でも、登ってきたのは亜樹だった。

「……亜樹?」
「なんか心配になって、探してた。夜中に出ていったみたいだからさ。ランニングには早すぎると思って」

 亜樹の額には汗が浮かんでいて、呼吸もやや乱れている。なんて答えるか迷ったけど、正直に言うことにした。

「なんていうか……呼ばれた?っぽい。生霊みたいな、変なのに」
「……本気で言ってる?」
「うん、まあ。結局、大丈夫だったけど。それより亜樹、私のジャージのポケットに煮干し入れた?」
「あっ。入れたかも。こないだランニングのときに借りて、途中で猫にあげようと思ってひとつかみ」
「おかげで助かった」
「……どういうこと?」
「後で話すよ。まあ、とにかく……ありがとね」
「役に立ったならいいけど……。少し、すっきりした顔になってるね」
「そうかも。食欲もちょっとでてきたような」
「帰ったらピェンロー、温めるよ」
「うん。あ、待って」
 神社のほうを振り返る。どうしても、確かめておきたいことがあった。

「もしかしたらだけど……この神社のどこかに、猫が埋まってるかも」
「猫?」
「もしかしたらだけど」
「見てみようか」

 それから、亜樹と2人で神社の境内を探した。こないだから、こんなことばっかりしているような気がする。しばらく探すと、境内を雑木林の間くらいに、最近掘り起こしたような跡があった。亜樹が、手を使ってその跡を丁寧に掘り返していく。

 でも、猫は埋まっていなかった。

 埋まっていたのは、血のついたティッシュが入った、ビニール袋だった。

    *

「えっ、それ、あの女の子が埋めたってこと?」
「証拠があるわけじゃないけど」
「じゃあ、あの子が見てたのって朱音じゃなくて……え? え? そういうこと?」
 小夜が眉間に皺を寄せる。たぶん、小夜が想像している通りだろう。あの子が見てたのは私じゃなくて、亜樹だった。私を見ていたとしたら、それは、そういうことだ。

 学内喫茶・ラグーンのウッドデッキ。今日は私の前にガトーショコラがある。あれから食欲も回復して、長引いていた手の怪我もあっさり治った。

「じゃあ、朱音の怪我も、もしかして……?」
「そうかもしれないけど、たまたま私が怪我をして、ティッシュが手に入ったからそんなことしようと思ったのかもしれないし。考えだしたらきりが無くて、それこそ振り回されてるみたいで嫌だから、考えるの止めた」
「えぇー、どっちにしても怖いんだけど……」
「ていうかあの子、今日もいるんですが……」

 水鳥が青い顔をして視線を中庭に向ける。つられて目を向けると、いた。おさげの女の子が、ベンチに座って私をじっと見ている。今日は目を逸らしもしない。

「うわぁ……どうすりゃいいんだ……」
 途方に暮れていると、女の子の肩がびくりと動いた。
「あ、亜樹くん」
 小夜の声に振り返ると、亜樹がウッドデッキに入ってくるところだった。亜樹は、緊張しているような、怒っているような、あまり見ない顔をしていた。
「ん? 亜樹、どうしたの?」
 その質問には答えず、亜樹は私のところまでまっすぐ歩いてきて、

 いきなり、私にキスをした。

「!!!!!!!!!」

 驚いて腰を浮かしかけた間抜けな姿勢のまま、体が固まった。

 音が遠ざかる。もしかしてこのまま失神するのかもと思ったけど、そうじゃない。周りの人がみんな動きを止めて私たちをガン見しているのだった。そりゃそうだ。いきなり衆目環視の中でこんなことおっ始めたら、私だってガン見する。

 小夜があんぐり口をあけている。
 水鳥は痒みをこらえるような変な顔をしていた。

 頭がぐるぐる回る。ドキドキバクバク、耳元で心臓がうるさい。たぶんこれ、キスされたままで息をしてないからだなと気づいたけど、唇は未だ塞がれたままで、息ができなかった。

 恥ずかしさと苦しさで本当に失神しそうになったとき、ようやく亜樹が離れた。さすがの亜樹も、ちょっと気まずそうというか、恥ずかしそうな顔をしていた。

「じゃあ、俺、講義あるから……」
「え、あ、うん、がんばって……」

 そっけない亜樹の言葉に、間抜けな返事を返す。

 亜樹が歩き去ると同時に周囲の時間も動き出した。悲鳴と笑い声がごちゃまぜになった宴会のような音が私たちのテーブルを囲む。話題は聞くまでもない。残された私は、針のむしろだ。亜樹といっしょに去ればよかった。

 見せもんじゃないと言って回りたかったけど、どう考えても見世物だったし、こんなタコみたいな顔でそんなこと言っても、なおさら恥ずかしいだけだ。もう、貝になるしかない。

「え? え? 何? 今の何だったの!?」
「亜樹くんすげーな! やるときゃやる男だな!」

 小夜と水鳥も変なテンションになっている。私は、まだ頭がぐるぐるしていて、落ち着こうと珈琲を飲んだらむせた。もう、どうにでもなれ。

「あ、もしかして……見せつけてくれたんじゃん?」
 水鳥がニヤニヤしながら言う。まだ頭が働いていないせいか、それが何のことかわかるまでたっぷり10秒かかった。

 ようやく理解してからベンチに目を向けると、女の子は、もういなくなっていた。

     *

 それからあの女の子を見かけなくなった。

 同じ大学の生徒だからその辺にいるんだろうけど、不思議と目に入らない。小夜が見たらしいけど、短く切った髪を明るく染めて、男子と腕を組んで歩いていたらしい。亜樹とはぜんぜん感じの違う、いかにも陽キャな男子だったとか。

 あの子にとって亜樹への想いは、もう過去のものなのだろう。アレを神社に埋めたこともひっくるめて。思い出したりなんて、しないに違いない。

 恋愛もおまじないも、一瞬で燃えあがって、過ぎれば忘れてしまう。

 一過性の恋愛に、一過性のおまじない。

 物事への執着が薄い、現代らしい話かもしれない。でも、過去の話を好んで蒐集している私にしてみれば、寂しいことに思える。

 私が見た夢が何なのかは、わからないままだ。この街ではかつて、猫を神様とみなしていた時代があったのかもしれない。そのときに生まれた噂を、実践した誰かの記憶だったのかも。もしかして、あの神社の境内には、本当に猫が埋まっているのかもしれない。

 そんなことを考えながら、大学の帰りに夜見神社に向かった。途中のみたまストアで買った、猫用のウェットフードとかつお節を持って。

 神社に着いてウェットフードを開封すると、神社の床下や森の中からわらわらと猫たちが出てきて、あっという間に取り囲まれた。

「お前ら、こんなにいたのか……」

 こないだ助けてくれた茶トラの猫もいるはずだけど、数が多すぎてどれかわからなかった。苦労して猫たちに平等にご飯を与える。

 猫たちは餌を食べ終えると、おのおの好きな場所に転がって、盛んに毛づくろいを始めた。そのうちの一匹が、目の前でお腹をだして寝転がる。

 ふわふわのお腹を指先でそっと撫でてやると、神様は目を細めて、ゴロゴロと喉を鳴らした。



 案の定、神社の床下からバラバラにされた地蔵が見つかった。

 地蔵は強い悪意を持って壊したように砕かれ、細かい破片になっていた。一見しただけだと地蔵の破片には見えないだろう。
 こんなものが床下にあれば、魚も湧くわけだ。魚が集えば思念が形を持つ。今日のように。

 そんなことは夜の片隅でいつも起こっていることだ。あいつらが「怪異」だと呼んでいるものは、この街ではごくごく日常的に起こっている。
 だから放っておくつもりだったけど、間の悪いことに、この街の怪異を集めまわっている、あの女がやって来た。
 仕方なく手を出すことにしたが、この姿を見られるのは困る。結局、近くで寝ていた猫を叩き起こした。魚を散らすぐらいなら、猫でもできる。
 案の定、猫のひと鳴きで思念は散った。大した思念ではなかったようだが、あんなものにも太刀打ちできないなんて、人間は弱い生き物だ。

 最近の街の状態から考えると、他の場所でも地蔵が殺されているだろう。たぶんあちこちで。
 誰かが悪意を持って壊し回っている可能性はあるけど、きっとそれだけではない。こういうことは前にもあった。
 この街の人間は、この街の成り立ちを忘れつつある。この街を守っているのが何なのか。そんな大事なことまで。
 だから地蔵を粗末に扱う。都合の良い時だけ縋るように拝んで、平穏が続けば存在を忘れてしまう。まじないと変わらない。あんなものは、人間に欲がある時にしか必要とされないのだ。
 街を歩けば工事現場とかの片隅に、ぞんざいに扱われた地蔵を見かける。この状態が続けば、いずれ街のどこかに綻びが生まれるだろう。

 女は迎えに来た男といっしょに帰っていった。私もそろそろ帰らなければならない時間だ。地蔵の始末は今度でいい。女もしばらくはここに近寄らないだろう。服についた枯れ葉を念入りに落として、スニーカーのつま先を蹴って靴底に詰まった泥を落とす。

 そして我が物顔で空に広がりつつある朝の気配をひと睨みして、石段に足を踏み出した。

(第9話に続く)


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