イェダラスカレイツァ_201904

ひとふで小説|3-イェダラスカレイツァ:バルヴァリデ[III]


前章:[I][II]〜[収録マガジン]

III


 湯の波打つ音の合間を縫って遠くから人のざわめきが聞こえる気がしたかと思うと、母屋の戸が開く音がする。なんとも不躾な、宿屋の主人だろうか。考える間も無いうちに湯場に繋がる裏口の扉が開くと、勢いよく入ってきたのは従妹のシオだった。
「ターレデ!ターレデ、助けて!」
 足を縺れさせながら駆け込んできたシオは一瞬だけヴァンダレの存在に怯んだが、そこから先は目もくれず湯場に浸かっているターレデの腕を自身も湯に濡れながら引いた。血の気の引いた白い顔は、涙を湛えた目玉と鼻先だけ朱に滾らせている。
 先に立ち上がったのはヴァンダレで、全身の水気を軽く払うやターレデの用意した寝巻きではなく、もと着てきた厚手の服を纏った。左手だけで器用に毛束を掴み、思い切り掌を握りしめて絞り上げれば石畳にばたたと音を立てて髪が溜めていた水は切られていく。
「何があったのです、お嬢さん」
 ヴァンダレは落ち着いた口調でシオを振り返りながら革靴に足を通して、母屋の裏戸に入っていった。金具の音が聞こえて間も無く、腰に剣を提げ直したヴァンダレの後ろ姿が見えた。
 呆気にとられていたターレデも慌てて服を着ると、シオの背中に手をやった。
「どうしたの、何があったの。シオ、どうしたの?」
「みんなが!みんなが!」
「みんなが?みんなって誰?どうしたの?落ち着いて!」
 ターレデは凍えるような寒さに負けないよう、気を持ち直した。何か起きているのは間違いない。
 濡れた体にまとわりつく冷気に身震いしながら表に出たヴァンダレは、紋章の美しい剣に左手を掛けながら、黄珀蜜の色をした目を左右にきょろりきょろりと走らせて耳を澄ます。
「たぶん人魔だ!あれが人魔というものじゃないか!?」
「人魔にシオの犬と猫がやられてる!誰か来てくれ!誰かぁ!」
 遠くで叫んでいるのは宿屋の主人と、乳屋の息子のようだった。
 シオが手名付けたのは幼い頃に拾った雄の大巌猫と雌の山耳犬で、言葉こそ通じないものの一人と二匹はまるで姉弟妹のように慕い合ってきた。村の子供が野生動物を従える姿は訪れる旅人を驚かせたが、この地域で親獣を亡くした幼獣を村人が保護するのはよくあることで、シオにとっては山犬も大猫も「みんなが」と呼ぶに値する。
「ヴァンダレ様、人魔だそうです…。危険では、ないのですか…!?」
「はい。でも、護衛や剣士が居ないなら、放っておくのも危険です!この村に腕の立つ者は?」
 ヴァンダレは足早に集落の小径を進みながらターレデに尋ねる。
「どなたも…。これまでこの村に魔物も、人魔も、…出たことが、なかったので、心得のある者たちは他国の前線に出稼ぎとして…出払って、おりますわ…」
 ターレデは急勾配に積まれた石段に息を切らされながら現況を説明した。湯上がりの体の芯を細く鋭く締め上げるように、喋れば喋るほど凍てついた空気が鼻から口から闖入してくる。シオはターレデの腕にしがみつきながら大人の歩幅に追いつこうとしていた。
「ならば絶対に、このまま夜を迎えないほうがいい!数が多くなければ私一人でどうにかできるかもしれませんが、まだ分かりません。…応戦しなくていいですから、護身のために武器になるようなものを持つよう皆さんに伝えてください。鎌や鋤のような農具があれば一番です、棍棒などよりは柄が短くとも刃物が良いでしょう。戦うことになってしまったら、とにかく人魔が体内に孕んだ液を出すのです。どうも、あれが体を死なせないはたらきをしているらしい。接近してしまったら、背中を見せずに刺し違える覚悟で懐に飛び込んでください。皮や肉を斬るのではなく、体に穴を空けることです。逃げるなら、川の中や湯の中、油壺など、体臭をなるべく抑えられる場所に逃げ込んで、動かず、音を立てずに、息もなるべく減らしてください。隠れる時も、立てなくなっても、刃物の切っ先は必ず自分ではなく外に向けたまま保ってください。やみくもに走ってはなりません。必ず追いつかれます!」
「どこかの、村や町に…遣いを出したほうが、良いのですか?」
「はい!地理に明るい、確実に辿り着ける方を選んでください。できれば馬で…。しかし人の足で半日や一日で踏破できる距離から応援を呼ぶならば、そちらの町や村が手薄にならぬよう気をつけてください。こちらが陥ちた時、手薄になった近隣の地域に人魔が辿り着く恐れもあります。何が必ず良いとは言い切れません。備えのあとは、運だけです。遣いを出した先でも、更に近隣の地域に遣いを出してもらって、人魔が現れたことを広めるべきです。…ここに出たということは、やがて…増えますから」
 ターレデが返事をしようとした時、前を小走りしていたヴァンダレが俄かに立ち止まって振り返った。
「もしも人魔と私が刺し違えたら、すぐに私の亡骸を粉々に砕いて、焼き払ってください。故郷に帰してやりたいなどと情けはかけず、必ず、すぐに、です。人魔として蘇った私にもしも剣の心得が残っているなら、私は一刻と経たぬうちに村じゅうの人々を殺せてしまいます。あなたのことも」
 何故というわけでもなく、あまりにも落ち着いて一生を閉じる話をこなすヴァンダレについて、ターレデは村の有事を一瞬忘れてしまうほど無性に、嫌だ、と思った。些か頭にきたと言っても差し支えないかもしれない。
「ご心配なさらないで。火は、熾してありますわ。夜が更けたらお酒を温めて、あなたに夜食を振る舞うつもりでしたから」
 もう向き直って砂利道を走り出したヴァンダレがそれをどんな顔で聞いたかは、見えなかった。

 血で赤黒く染められた純白の大猫は集落へと続く狭路へ立ちはだかり、人魔たちに切られても咬まれても道を譲ろうとしない。岩陰からは村中から集めた四人の猟師が矢を放ち猫に応戦した。人魔が大猫に近づこうとするたびに食らいついて引き剥がすのは、いつもシオに甘えきりの臆病な山犬だった。逆立てたはずの毛は血液を湛えた重みで束を垂れている。シオの母親であるサラもまた、二頭の陰を保ちながら隙を縫っては人魔に矢を放つ。
 助けを求めに来られたところで、ターレデに出来る実質的な支援は何もなかった。ただシオの手を握り、背を撫で、宥める以外。
「大丈夫、シオ。ヴァンダレ様が居るからきっと大丈夫よ」
 実際ヴァンダレは見事で、一部始終は各地で魔族と戦い続けた証そのものだった。見所もなく、危なげなく、ただ人魔と渡り合い斬り捨てた。ついさっき聞かされた戦い方も、逃げ方も、遣いを出すにあたっての念押しも、すべてただの謙遜で、ヴァンダレが居る限り無用の備えではないかと疑うほどに。

 ヴァンダレが割って入って間も無く集落の入口には、山犬の遺体と、間も無く旅立つであろう傷ついた大猫、そして人魔の骸がいくつか倒れていた。いくつか、というのは、本当にいくつ居たのか分からないままヴァンダレが斬り刻んでしまったからだ。頭数を数えれば或いは判明するかもしれなかったが、容赦なく解体された骸に近づく気には誰もなれなかった。
 集落じゅうの人々が、もっと早くに剣豪の滞在を知りたかったと悔やんだ。腕のいい剣士が立ち会えばこれほど呆気なく勝てるものなら、シオの猫も犬も死なずに済んだかもしれない。
「ヴァンダレ様、この子たちはどうなるの?!」
 大人たちが近寄ろうとしない人魔の骸を越えて、横たわる山犬と大猫に駆け寄ったのはシオだった。
「刻んで焼き払う…ほか、ありませんね。魔族により深い傷を負わされた生き物の屍には“魔虫”が湧きやすく、肉体を蝕みながら魔物としての生命を作る場合がほとんどのようです。…時間がどれほど残っているかは分かりません。すぐ魔物と化して立ち上がるものもあれば、三日三晩ののちに生まれ直すものもあります。刻んで焼いたものは魔虫が湧く前であればただ焼いた肉ですから、近しい者であれば食べて己の血肉とする弔い方を選んだ人たちも居ましたが…」
 シオはもちろん、村中の者が押し黙った。
「シオと言いましたね。これから私はこの勇敢な戦士たちを葬ります。この子たちがあなたの可愛い山犬と大猫の姿であるうちに。あなたも、あなたの手でこの可愛い山犬と大猫たちに別れを告げますか?それとも、私に任せますか?どちらも正しい選択です」
「……やる」
「わかりました。それでは、誰か、シオに剣を。なるべくシオが両手で持てる大きさのものがいい。心当たりはありますか?」
 シオは、母のサラが持っていた細身の剣を使って愛しい相棒を解体した。

 程なくしてターレデとシオの暮らす集落は、元あった出入口と人魔の骸を焼いた灰を忌々しい出来事の記憶と共に岩と石と土で埋め立て、少し離れたところに新たな門を拓いた。今度は、道がぽっかり開いたものではなく、両脇を石垣で固め、更には丸太で作った大扉がついたものだ。
 村の人々は剣士ヴァンダレの傑人譚を思い思いの作風で口々に語り継いだが、“隻腕の女剣士”であると強調したことは一人残らず共通した。

つづく
(小出しにします。)

「ひとふで小説」は、何も考えずに思いつきで書き始め、強引に着地するまで、考えることも引き返すこともストーリーを直すことも設定を詰めることも無しに《一筆書き》で突き進む方法でおはなしを作っています。
 元々は、具合悪くて寝込んでいた時に「いつも通りストーリーを練って本腰で働くほど元気じゃないし、長時間起き上がって作画するのは無理だけど、スマホに文章を打ち込めないほど衰弱してるわけでもなくて、ヒマだなー…」っていうキッカケで、スマホのテキストアプリに書き始めました。いつもは構成も展開もラストシーンも大体決めて原稿に取り掛かるので、たまには違う作り方も面白いから、即興で突き進み、溜まったものを小出しにしています。挿絵も、こまかい時間を活用して、ご飯を食べながらとか寝る前にiPadで描いています。
 珍しく無料記事として物語を放出している理由は、今のところ「日常の空き時間に、細かいことは何も考えずに、ちゃんと終わるかどうかもまったく分からずに、勢いで作っているから」という、こちら側の気の持ちようの問題です。(他の無料記事が同じ理由で無料というわけではありません。)


■このシリーズが収録されているマガジン

(作・挿絵:中村珍/初出:本記事)