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不思議な暮らし

年収100万円くらいの暮らしをしている。確実にお金のもらえる労働を多くて週に10時間、あとは、博打みたいなことをしている(作品をつくっている)。
就活をしなかった。何か強い意思のもとそうしなかったわけではなく、何か自分に可能性を見出だしていたわけでもない。じぶんは自分の現実を淡々と生きていて、その過程にそれがなかった、というだけだった。同級生のエントリーシートの添削をしていた。

よくわからなかったのだ。じぶんは、自分にとって現実味のないことに時間と、身体と、精神を費やすことができない。じぶんは多くのことがよくわからない。何がいいとか、悪いとか、

「罪」

罪、というものがあるのだとしたら、それは「自分を放棄すること」だと思う。そして、多くの誘惑(他人の目線:ちゃんと生きろ、他人に迷惑をかけるな、よりよく生きよう、といったようなこと)がそれを引き起こそうとしている。

人間の世界は人間が編んでいる。それ以上でも、それ以下でもなく、ただそれだけなのだ。例えば、有名になるということはそれだけ多くの人の脳内に自分のコピーが現象するということで、その分だけの解釈が生じる。ただそれだけ。
人間の世界を「すべて」だと思っている人が、やたらと多いような気がする。世界はもっと複雑だ。けれども、「すべて」は自分だ。他人の目線に自分を捧げ、自分を放棄する罪に陥る原因は、この誤解による部分が大いにあると考えている。

他人の目線は多くのことを語るが、決して責任を持たない。どんなに有名になったって死んだときには「ご冥福をお祈りします」とツイートされておしまい。そのくらいに、あなた自身の人生が何であるのかなんて、他人はどうだってよいのだ。どうだってよいくせに、満足できるか否かを押し付けてくるのである。
だから、ぶっちぎるしかない。

ゆたかさとは何か。それはお金かもしれないし、お金じゃないかもしれない。時間かもしれないし、時間じゃないかもしれない。感情かもしれないし、感情じゃないかもしれない。物かもしれないし、物じゃないかもしれない

「ゆたかさは、お金だけじゃない」

わたしにとってはそうで、わたしにはそんなこと分かりきっている。わざわざ書くほどのことじゃない。物質的な財産とゆたかさがイコールで結ばれていた時代が過ぎ、お金では表現できないゆたかさが見出だされた時代も過ぎたと、わたしは思っている。
つまり、湖のうえの空がみずいろからピンクに移ろう様子をぼんやりと眺め、風景が彩度を失っていく時間に、ひどくさみしいきもちを呼び起こし、刻一刻と迫る死と、「たしかにあった時間」に思いを馳せ、身体を委ねる。わたしにはそのような時間がたいせつで、働いている場合ではない。けれども、そんなことに時間を費やすくらいなら、仕事をしていることのほうがずっとゆたかだ、という人もいる。そのように、ゆたかさはある一つの定義として時代とともに刷新されていくのではなく、多様であるということだ。
それともまだ、時間や感情についてのゆたかさを示さなければならないほど、大衆は深刻な状況なのだろうか。

わたしにはわたしのゆたかさがあり、あなたにはあなたのゆたかさがある。好きにしてください

人間の世界は人間が編んでいる。けれども、自分の世界は自分で編んでいく必要がある。自分の世界を編む過程で他人の世界が絡まり、編み込まれていく。その結果として人間の世界がある
「自分」をどのように編むかは自分自身に委ねられている。どうやったっていい。「こうすればうまくいく」という方法は、そのようにすればうまくいくような状況になるような行動を多くの人がとっているから「うまくいく」だけで、絶対的な方法ではない。
人間は一人一人が異なりあっているというのに、それに気づかず「他人と同じである」と勘違いをし、或いは望み、秩序を生み出している。それは、不思議な暮らしだと思う。わたしたちはおおよそそういうふうに生きてしまっているというだけで、おそらく、世界的に多くの財産を失ってきた(才能を潰してきた)。世界規模で「ゆたかさ」をのぞむのであれば、人間は人間についての誤解をとき、人間を発見する必要があるだろう。それは、大規模なプロジェクトによって実現されるのではなく、自分自身が自分を放棄しないことによってのみ、可能性が拓けるものだと思っている。

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