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【芝居】の【描写】、その【効能】(第4回)

 いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。

 私、ここのところ“広義の【芝居】”、つまり私が好んでよく用いる【描写】について、【我流】なりに【考察】を巡らせております。

 私の【認識】するところ、“広義の【芝居】”の【役割】は、「全部【理解】して欲しい!」という【心理】から生じる【問題点】、この数々から【作品】を守る――というものです。

 その【問題点】の少なくとも一つは、私の【認識】するところ『【作者自身】が【作品】を“心に響かない【説教】”に仕立て、さらには【作者】の【姿勢】についても「口(【言葉】)だけ【達者】で、【奥深さ】を持たない」と見せてしまいかねない』というもの。

 ではなぜ、“広義の【芝居】”でこの【問題点】から【作品】を守ることが【可能】になるのか――と申せば。

 「全部【理解】して欲しい!」と言わなければ、『“【優先順位】の低い【情報】”は、“伝わらない【観客】には伝わらなくてもいい【表現】”で示す』と考えることもできるというもの。であれば『【行間】という【概念】を活かす』という【方法論】が、【選択肢】に上がってきます。これは【奥深さ】を表す上で【有利】に働く考え方です――【表現】が『口(【言葉】)だけで終わらない』、つまり【間接表現】を備えるからです。

 そして私の考えるところ、“広義の【芝居】”とは、『【表現意図】を“【動き】という【間接表現】”に【翻訳】したもの』です。

 こう割り切ってみると、今度は【表現】をある種の【基準】をもって大別することができるようになっていきます。

 前回は、この【基準】へと【考察】を巡らせました。

 【表現手法】として【静】と【動】、どちらを重んじるか――というものです。

 例えば「全部【理解】して欲しい!」ための【直接表現】となれば、それは【作者】の気が済むまで、その一瞬の【状態】を【記述】することになります。そこに【時間】の【流れ】が織り込まれるわけではなく、ゆえに“【静】の【表現手法】”と私は【認識】するわけです。

 であれば、【情報量】も【考え方】も、【基盤】にあるものは【一枚絵】へ向かう道理、【動き】を重んじて“【表層】の【情報量】”を減らす【パラパラ・マンガ】とは別の【方向性】を帯びる――という、これが私の【認識】ですね。

 このように【直接表現】を“【静】の【表現手法】”と位置付けた上で、今回は私が“【動】の【表現手法】”と位置付ける【芝居】を掘り下げてみましょう。

 ◇

○【考察】:【芝居】を掘り下げる

 さて。
 【直接表現】を“【静】の【表現手法】”と位置付けた上で、【動き】に当たる【芝居】の【定義】を【我流】で試みるならば。
 “広義の【芝居】”は『【当事者】、つまり【登場人物】や【物体】の“【主観】と【行動原理】に【立脚】する【動き】”』というところでありましょうか。『“【動】(あるいは【変化】)の【表現手法】”とするものの中でも、“【観客】の【意識】の【焦点】”を【誘導】する先』というところです。ただし【登場人物】や【物体】の【主観】と【行動原理】に【立脚】するので、その【動き】全般に渡って【主観】と【行動原理】が【反映】されることになります。

 見方を変えれば『【芝居】において、”【主観】と【行動原理】”はあらゆる【動き】に込められる』ということになります。もちろん細かな“【芝居】の【動き】”一つ一つに込められる【主観】と【行動原理】は、【断片的】にならざるを得ません。例えるなら『【主観】と【行動原理】が、【動き】に【不可逆圧縮】で【エンコード(暗号化)】されて込められている【状態】』とも申せましょう。

 で、【不可逆圧縮】であるからには。
 『“【主観】も【行動原理】も【断片化】された、【動き単体】”からは、そこに込められた【意味付け】や【表現意図】は【解釈】し切れない』という【状態】になります。
 これは『【意味付け】や【表現意図】を【行間】へ込めた【状態】』という【認識】もできますね。【行間】へ込めているのですから、【単体】で全てを【解釈】されることは、【作者】としても望みません。

 さて、こうした【芝居】において、“【行間】の【表現】”として込められた“【意味付け】や【表現意図】を【解釈】するには、以下の【工程】が必要になります。

 まず、【複数】の【動き】から、“【共通】しているであろう【意味付け】の【存在】”に気付くこと。
 次に、『【物語】内の他の【場面】や、場合によっては【現実】に【存在】する【事例】や【エピソード】の数々』、つまりは“当の【表現】の外”から、【解釈】の手がかりとして“【動き】に込め得る【意味付け】の数々”、言うなれば“【動き】を【解釈】する【コード表(暗号表)】”を手に入れ、(【動き】ごとに)頭の中に【展開】すること。
 最後に、【展開】した【コード表(暗号表)】から、“【動き】の数々に【共通】する【意味付け】”を【特定】し、【解釈】すること。

 この一連の【工程】は、言い換えれば“【芝居】によって【行間】に込められた【意味付け】を【デコード(復元)】する【工程】”ということになりますね。“【芝居】の【動き】”という形に【エンコード(暗号化)】された【表現意図】を、“当の【表現】の外”にある手掛かりまで含めた【コード表(暗号表)】を元に【復元】する【作業】が、ここで【展開】されるというわけです。

 この時、“【芝居】の【動き】”一つ一つは【複数】の【意味付け】を内包しています。この【事実】は『ここで【デコード(復元)】されたもの以外にも、他の【動き】と結び付く【意味付け】が【存在】していること』を表します。
 もちろん【不可逆圧縮】ですから【観客】が【解釈】し切れるとは限りません。ですが、『そこに、“さらなる【意味付け】が【存在】していること”自体を示す【表現】』としては【機能】し得るわけです。これは【現実】に【存在】する【奥深さ】にも通ずるものですね。なので『【解釈】し切れないこと』もまた“【奥深さ】の【表現】”として役立つことになります。

 と、ここでお察しの方もおいででしょう。「それって難しいんじゃない?」と。

 もちろん、楽とは申しません。

 実際のところ、“【芝居】の【動き】”は、あくまで【登場人物】や【現象】の“【主観】や【原理原則】に基づく【動き】”です。【登場人物】も一個の【人格】、【現象】にしても【作品世界】における【自然現象】、であるからには“【作者】の【人格】からは【独立】した【存在】”です。よって当然、そこに“【作者】の【都合】”は【介在】しません。

 つまり“【芝居】の【動き】”に“【作者】の【都合】”が【介入】すれば、その【動き】は即座に【ご都合】へと化けるわけです。例えば『【登場人物】が【作者】の【操り人形】になっている』と、【観客】に映ってしまうような【現象】が起こるわけですね。それで【観客】に【盛り上がり】を【期待】するのは、いかにも【作者】の【ご都合主義】というものでしょう。
 もちろん【例外的】に“【偶然】の【一致】”はありましょうが、【偶然】であるからには【作者】の【意図】で【発生】はしない道理です。

 何が言いたいかと申せば。
 つまりは『”【動き】への【エンコード(暗号化)】”という【作業】は、“本来とても【容易】とは言えない”』ということです。

 ◇

 さて、今回は一旦ここまで。

 【芝居】を掘り下げてみれば、そこには“【登場人物】や【物体】の【主観】や【行動原理】(複数)”が埋め込まれていて、その【状態】を例えるなら“【不可逆圧縮】の【エンコード(暗号化)】”ということが観えてくるわけです。これが【間接表現】となるわけですね。

 もちろん【不可逆圧縮】であるからには、【観客】全員が【デコード(復元)】できるわけではありません。ただ、『そこに込められた【意味付け】が(複数)【存在】する』という【間接表現】としては伝わりやすくなります。これは【現実】にも【存在】する【奥深さ】にも通ずるものですね。

 もちろん、【容易】な【表現】とは申しません。

 次回は、この“【容易】ではない【背景】”と、その【恩恵】を考えてみましょう。

 よろしければまたお付き合い下さいませ。

 それでは引き続き、よろしくお願いいたします。

(次の記事)


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