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【芝居】の【描写】、その【効能】(第5回)

 いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。

 私、ここのところ“広義の【芝居】”、つまり私が好んでよく用いる【描写】について、【我流】なりに【考察】を巡らせております。

 私の【認識】するところ、“広義の【芝居】”の【役割】は、「全部【理解】して欲しい!」という【心理】から生じる【問題点】、この数々から【作品】を守る――というものです。

 その【問題点】の少なくとも一つは、私の【認識】するところ『【作者自身】が【作品】を“心に響かない【説教】”に仕立て、さらには【作者】の【姿勢】についても「口(【言葉】)だけ【達者】で、【奥深さ】を持たない」と見せてしまいかねない』というもの。

 ではなぜ、“広義の【芝居】”でこの【問題点】から【作品】を守ることが【可能】になるのか――と申せば。

 「全部【理解】して欲しい!」と言わなければ、『“【優先順位】の低い【情報】”は、“伝わらない【観客】には伝わらなくてもいい【表現】”で示す』と考えることもできるというもの。であれば『【行間】という【概念】を活かす』という【方法論】が、【選択肢】に上がってきます。これは【奥深さ】を表す上で【有利】に働く考え方です――【表現】が『口(【言葉】)だけで終わらない』、つまり【間接表現】を備えるからです。

 そして私の考えるところ、“広義の【芝居】”とは、『【表現意図】を“【動き】という【間接表現】”に【翻訳】したもの』です。

 こう割り切ってみると、今度は【表現】をある種の【基準】をもって大別することができるようになっていきます。
 即ち、『【表現手法】として【静】と【動】、どちらを重んじるか』。

 例えば「全部【理解】して欲しい!」ための【直接表現】となれば、それは【作者】の気が済むまで、その一瞬の【状態】を【記述】することになります。そこに【時間】の【流れ】が織り込まれるわけではなく、ゆえに“【静】の【表現手法】”と私は【認識】するわけです。

 であれば、【情報量】も【考え方】も、【基盤】にあるものは【一枚絵】へ向かう道理、【動き】を重んじて“【表層】の【情報量】”を減らす【パラパラ・マンガ】とは別の【方向性】を帯びる――という、これが私の【認識】ですね。

 このように【直接表現】を“【静】の【表現手法】”と位置付けた上で、前回は私が“【動】の【表現手法】”と位置付ける【芝居】を掘り下げてみました。

 【芝居】には“【登場人物】や【物体】の【主観】や【行動原理】(複数)”が埋め込まれていて、その【状態】を例えるなら“【不可逆圧縮】の【エンコード(暗号化)】”ということが観えてくるわけです。これが【間接表現】となるわけですね。

 もちろん【不可逆圧縮】であるからには、【観客】全員が【デコード(復元)】できるわけではありません。ただ、『そこに込められた【意味付け】が(複数)【存在】する』という【間接表現】としては伝わりやすくなります。これは【現実】にも【存在】する【奥深さ】にも通ずるものですね。

 もちろん、【容易】な【表現】とは申しません。

 今回は、この“【容易】ではない【背景】”と、その【恩恵】を考えてみましょう。

 ◇

○【芝居】の【動き】、その【難度】

 ここで言う“本来とても【容易】とは言えない”ということについて、もう少し掘り下げてみますと。

 “【偶然】の【一致】”を【作者】がお膳立てすることは、もちろん【不可能】ではありません。ただしそれが他の【登場人物】の【動き】に【依存】するものなら、もちろん『当の【登場人物】も【主観】に基づいて【動く】のが【自然】』というものです。でなければ、【ご都合】の誹りは免れないでしょう。

 となると。
 つまり『【作者】の【意図】通りに【シーン(状況)】を【出現】させること』や『【作者】の【意図】通りに【登場人物】を【動かす】こと』は、本来『とても【容易】とは言えない』というわけです。

 これは“【登場人物】の【主観】”を【尊重】してみれば【痛感】することです。“【独立】した【人格】を持つ【登場人物】”は『まず【作者】の【意図】通りには【動いてくれない】』ものですし、『そもそも当の【状況】を【望まない】ことが多い』ものでもあります。
 【作者】としては手のかかるものですが、むしろその方が『【登場人物】への【向き合い方】としては【誠実】な【認識】』とも取れます。【登場人物】も一個の【独立】した【人格】であるからには、『【作者】として、思い通りに操ろうとしてはならない』というわけです。

 ここまでを踏まえるに、言えることがあります。
 『【芝居】とは、【表現意図】を何重にも回りくどく【翻訳】して、かつ刻々と変化する【背景事情】をも織り込んで、それでようやく【成立】する“【動】の【表現手法】”』ということです。

 もちろん扱いやすくなどありませんが、もちろん【相応】の【恩恵】もあります。

 【芝居】によってもたらされるものは、“【表現】の【自然さ】や【存在感】、および【説得力】”といった、“【完成度】に対する【潜在能力】”とでも言い表すべきものです。この【潜在能力】たるや、“【短絡的】に作れてしまう類の【直接表現】”の比ではないのです。何しろ“【現実】に【存在】する【奥深さ】”すら味方にでき得るわけですから。

 対して【直接表現】は、さてどうでしょうか。
 もちろん“【現実】に【存在】する【奥深さ】”を内包しようにも、『全てを【直接表現】しようとする』からには『【原理的】に、【直接表現】以上の【意味付け】を込めることは【困難】を極める』ものと【予想】されます。

 実は、【直接表現】の【不利】というものは、これだけに留まるものではありません。『【直接表現】を好む【作者像】』が、【不利】に拍車をかけるものと【予想】されます。

 “【表現】に際する【容易さ】を求める【作者】”、特に“【精神的余裕】の乏しい【作者】”という【人物像】を【想定】してみましょう。【容易さ】を求め、【精神的余裕】に乏しいほど、往々にして「全部を【理解】して欲しい!」という【心理】をより強く抱きやすい――という【傾向】は、【想像】するに難くありません。
 この【傾向】が強まるほど、“【直接表現】を【採用】したくなる【誘惑】”もまた強くなるものです。

 ここで私が【指摘】したいのは、『【直接表現】を【無条件】に【採用】すれば、その時点で“【精神的余裕】の乏しい【作者】たち”の【表現】と【差別化】する(【同列視】を【回避】する)ポイントが、確実に一つ減る』ということです。「【表現】で抜きん出たい!」と【意図】する上では、この【不利】は【覚悟】せざるを得ないでしょう。

 【直接表現】は、“【言いたいこと】を【直接的】に【吐き出したい欲求】”を満たすには向いています。
 それ自体は【当然】のこととして、ただし『【直接表現】によって“【表現】としての【効果】が薄くなる【可能性】”は【否定】できない』のもまた【事実】です。“【観客】が容易に【言語化】できない【魅力】”、つまり【奥深さ】というものは、【作者】が自ら【直接表現】に及んだ瞬間に【実現】が極めて【困難】になるわけですから。

 ◇

 さて、今回は一旦ここまで。

 “広義の【芝居】”は【登場人物】の【人格】、ひいてはその【背景】にある【作品世界】全体の【原理原則】上に成り立っているわけですが。である以上は、その【完成度】や【自然さ】を【追求】するのは『とても【容易】とは言えない』のはむしろ【当然】でありましょう。

 ただし、だからこそ『“【表現】に際する【容易さ】を求める【作者】”』の【作品】からは【差別化】しやすいことになりますね。

 この【位置付け】とその【難度】を踏まえた上で、次回は“【芝居】の組み方”へ【考察】を巡らせてみることとしましょう。

 よろしければまたお付き合い下さいませ。

 それでは引き続き、よろしくお願いいたします。

(次の記事)


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