「指導」と「薬」の話
・具合が悪い時に、病院に行って医者に診てもらう。
・自覚している状況を説明する。
・喉の奥を診てもらったり、脈拍を取ってもらったり、体温を測ったりする。
・そして、その結果として、薬を処方してもらう。
・もらった薬を服用して、様子を見る。
具合の悪い時に取る行動ってこんな感じでしょうか。
この時の重要な点をいくつか書いてみる。
・具合が悪いことを自身が自覚していること
・自身の意思で病院に行くこと
・その病院も自分で選んで行くこと
・信頼する医者に診てもらうこと
・その医者の判断で処方された薬を服用すること
少なくとも、信頼できない医者をわざわざ選んで診てもらうことはないでしょう。
信頼している人が判断して処方した薬だからこそ、「効くに違いない」と思って飲むわけだ。
だから、治っていく気がする。楽になった気がする。症状が軽くなった気がする。最後には、治った気がする。元気になった気がする。
「プラシーボ効果」って言うんでしたっけ。
「病は気から」って昔の人は絶妙に言い当てています。
この話を何かの「指導」に当てはめてみる。
誰かを指導する時、誰かに指導される時の話。
指導される側が「患者」で、指導する側が「医者」になる。
指導される側は、「学生」とか「選手」とか「部下」とかでしょうか。
指導する側は、「先生」とか「コーチ・監督」とか「上司」とかになりますかね。
指導する側の指導する目的は、問題を解決したり、成果を出したり、良い状態に改善すること。
そして、その問題を解決したり、成果を出したり、改善するのは、指導される側自身の行動によって生まれる。
つまり、指導する「先生」や「上司」が「医者」で、指導される「学生」や「部下」が「患者」であるとすると、「指導」は「薬」になる。
従って、「薬」の「効き目」は、「指導」の「結果」になるわけだ。
この時の問題点は、(一般的に)指導される側は、指導する側を選べないこと。
病院(医者)の様に、自身の判断で相手を選ぶことが多くの場合難しい。
ところが、指導する側は、あまりそんな意識はもっていない。
選ばれた人物でもないのに、指導しなければならないわけだ。
それは、先生であれ、コーチであれ、上司であれおんなじである。
これらのことから、先生や上司は、(選ばれていなくても)信頼される人物にならねばならないし、その指導が、効くに違いないと思わせないといけなくなる。
いやぁ、大変じゃないですか。先生とか上司って。
先生や上司が、いくら正しい指導をしたとしても、それを求めて、それを信じて、行動しなければ成果にならない。その為には、そうなりたいと強く思うことも重要でしょう。
患者が薬を飲んで、元気になりたいと強く思うのと同じです。
よく心療内科で処方される薬が合わない話を聞くことがあります。
薬の種類とか量をその人に調整する必要があるって聞きます。
それ以上に、その薬が効くに違いないと思うことと、効いた先に希望とか目標があって、心からそうなりたいと思うことも重要でしょう。
薬がどうしても合わないとか、良くならない場合、セカンドオピニオン的に別の病院を訪ねることもあります。
こんな話を先生とか上司に当てはめてみると、先生とか上司は、そんな簡単には変えられません。
学校で言えば、学年が変わるとか、会社で言えば、異動なんかで部署や勤務地が変わることぐらいでしょうか。
はい、先生とか上司の立場にある皆さま。
如何でしょうか。
普段の指導が、相手の為になっているか問題。
選ばれてもいない医者が、勝手に薬を処方して、無理やり飲ませていないでしょうか。
自分の言動を振り返ってみましょう。
指導の結果が成果になっていないとすれば、そんな可能性があります。
元気になりたいと全く思っていない患者に、いくら薬を飲ませても、元気にはなりません。当たり前の話です。
部下から見た上司を医者とした場合、元気な時には必要ないことになりますね。
それこそ具合が悪い(問題がある、成果にならない)時に、適切な薬(指導)を処方して、元気にする(問題を解決する、成果に近づける)ことが求められるのでしょう。
ってことは、予防医学的な観点の(薬を必要としない)指導が本質的なのかもしれません。
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