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『ジュリーがいた』の時代を生きて

1960年から1970年イギリスのリバプール出身のロックバンド、ビートルズが、世界の音楽シーンを席巻していました。 
若者たちの熱狂をまきおこし、ドラッグとともにヒッピーやサイケデリックというファッションをも巻き起こしていました。
そんな中、タイガーズは1967年、京都のロックをやりたい少年達で結成されました。
意に添わぬ、フリフリのブラウスを着せられてのデビューでしたが、この頃、日本中の中学生の女子は、グループサウンズに熱狂していました。 
私はまだ小学生だったので、横目でみている感じでしたが、失神者何名とかよく耳にしました。
熱狂的なGSブームもそんなに長くは続かず、1971年1月にタイガーズは解散します。 そのころ世の中は連合赤軍といって学生運動が、すごかったのを覚えています。
一つの国の中なのに、世代や性別で関心事は全然違うのですから、びっくりです。  
タイガーズ解散の後は、ジュリーとショウケンのダブルボーカルでPYGというロックバンドをやっていたということです。 
ロックというのは、ハングリーな感じですよね。
だから恵まれた渡辺プロがバックについているバンドはなかなか受け入れられなかったようです。  そこからジュリーはソロになっていきます。
私はすごいファンだった気でいましたが、その辺の3,4年しか知りません。 その後は自分の人生で手一杯でした。
今回、『ジュリーがいた』を開いて、第一章のタイトルにびっくりです。 沢田研二を愛した男たちです。 そしてBLのことから入るから、その前まで読んでいた『BL進化論』の続きかと思いました。
 
 1976年の春、私は上京しました。 遠い親戚で、しかもお茶の家元の家に下宿させてもらいました。 血のつながりは無かったようです。
田舎の母の兄、私の叔父の口利きだったので、月3万円という破格で、私を、下宿させてくれました。
ありがたいお話ですが、先方にしてみれば割にあわない話です。
庭だけで500坪、お茶室だって大小含めて3,4室ありました。 大勢の生徒さんを抱えて、2人のお子さんも小さかったから家元は大忙しでした。
なんでこんなほとんど見ず知らずの田舎娘を預からなきゃならないのかという気持ちはあったと思います。 当然です。
私もなんとなく肩身がせまくて、1年が限界でした。
でもその1年でお茶の平点前を一通り覚え、酷かった箸の持ち方を直してもらいました。
後、よく人の家の飯を食うといいますが、あんなにあった好き嫌いがほとんどなくなりました。家元のつくる炒り卵がおいしくて、何度も挑戦しましたがあの味にはなりません。
気の利かない娘でしたが、いろいろ教えて頂いてありがとうございました。
そしてバイト先の鈴木君が軽トラ借りて、引越し手伝ってくれました。
ちなみに鈴木君は友達の彼氏です。 
渋谷区代々木のアパートは4畳半、トイレ共同、風呂なしですが、私だけの秘密基地みたいで、ワクワクしました。 窓からは線路が見えて、ちょっと先には小田急線の南新宿の駅がみえました。
女の子だけのアパートで2階建てで、8人位住んでいました。 それでも当時家賃は18000円 母からの3万円の仕送りの半分以上は飛んでゆきます。 でも自分の身勝手ではじめた一人暮らしだから、親に頼るわけにもいきません。
専門学校の授業料だって高いのに、これ将来仕事に役立つのか疑問に思うこともたくさんあったので、専門学校は1年で中退しました。 
実社会で学ぼうと思いました。19才の私はそのころ流行っていたマンションメーカーに就職しました。 マンションメーカーと言ってもマンションを建てている訳じゃなくて、マンションの一室で洋服を扱っている小さな会社にアシスタントデザイナーという名目で入社しました。
その会社はそのころ流行りのUCLAとかプレイボーイとかのアメカジを輸入販売する一方で、オリジナルも作ろうとしていました。
西麻布3丁目の交差点からすぐの所に会社はありました。 
渋谷からバスで通っていました。社長と営業が2人、デザイナー1人と事務の女性1人の小さな会社です。
今でも全員の名前覚えています。 事務の女性が妖艶な感じの人でお姉さんと思っていたけど、23才でした。 社長の32才が一番年上でした。 私は一番年下だからかわいがってもらっていたけど、デザイナーの今川さんになにか言われてもピンとこなくて、あんまり役にたてなかったと思います。
知識がないのはもとより、 感性の問題を人と共有するのは難しいです。 
初任給8万円だったと思います。  だからその位から自分が生きてくことに必死で、ジュリーを追う余裕は無くなっていました。 
第一テレビも無いし、一冬暖房すらありませんでした。
唯一レコードプレーヤーはあって、その頃、ローリングストーンズとか、ジャニス・ジョプリンとか聞いていました。 大声で歌うから、今度越してきた子は歌手志望だとまわりは思っていたらしいです。 
一日一食でも大丈夫、人は希望があれば、生きていけます。
むしろ若いから、綺麗に痩せます。
キルケゴールは言いました。死に至る病は、絶望だと。 そして雪が降ればはしゃいでいましたから、変わった女扱いされていました。
家は母子家庭だし母は高齢だったので、早く自立しなきゃと若干からまわってはいました。
が、それでもいい時代でしたし、若いと言うことはそれだけで充分な希望となる時代でした。 
私は小さい頃から一人でいることが多かったので、一人は寂しいどころか、最大の自由でしたが、金銭的には不自由でした。 
そうしてファンも自分の人生に翻弄されて、ジュリーを追えなくなっていきます。 
思い出したら65才です。 そしてジュリーは75才です。
本を読み進むにつれて、逸材と言われたジュリーの苦悩が見えてきます。
ジュリーを見出したのは、内田裕也さんです。 
ジャニー喜多川がどこでみつけたんだと羨んでいたようです。 
芸能界を席巻してきたジュリーには、いつも彼をプロデュースしたい人達が取り巻いていました。
ジュリーは表現者として人一倍優れていて、人に求められたものを表現する事に秀でていたのかなと思います。 圧倒的に美しかったから、BLのイマジネーションも沸くんですね。 BL雑誌「JUNE」にも、ジュリーの記事や広告が多数掲載されていたようです。
美少年ランキングでもデビット・ボウイに対抗できるのは日本ではジュリー位だったみたいです。 映画『魔界転生』って今でもみられるなら見たいです。 当時の私はなにをしていたのでしょう。 
ジュリーと真田広之のキスシーンが物議をかもしたとのことです。
30代半ばを過ぎたくらいから、レコードの売上にかげりがでて、苦悩されることもあったようですが、樹木希林さんがおっしゃっていたように「あんまり苦悩しないで」って思います。 常人では、なせない功績をなしたのですから。 こんなの私の素人考えですが、もう少し早い時期にその主導権をご自身で持って、ご自身のすきな音楽をされていたらどうだったのかなと、思います。 最近、私も思うことがあります。
誰かに認められる為に生きている訳じゃないって。
こんなことを言ってしまっていいのかと思います。
こうして書くことも、人に認められてなんぼの世界です。
きれいごとかもしれませんが、私は、多くの人に読んでもらう為のテクニックに心をつくすなら、自分の感性を磨き、表現の幅を拡げる語彙力を身につけたいと思います。 そして自分が納得できる作品ができても尚、理解されないのなら、運命なので受け止めて静観するしかありません。
 
 そして、この『ジュリーがいた』を読んでいる中、ちょっと寄り道して瀬戸内寂聴さんと萩原健一さんの『不良のススメ』を読んでみました。 
あーショウケンっていろいろあったなと思いだしました。
PYGの時はジュリーとWボーカルでしたが、ショウケンとは個性がぜんぜん違う感じでした。ショウケンは確かに不良でしたね。 
寂聴さんは不良が好きというけど、ほっとけないんですね。 長い年月、おりに触れて、後ろ盾になっているんです。 そういう人がいるって尊いことですね。
寂聴さんが知っている一番の不良は井上光晴さんだそうです。 
娘の井上荒野さんの書いた『あちらにいる鬼』は映画にもなりましたが、寂聴さんと、井上光晴さんのことが書かれています。 たしかに、井上光晴さんは壮絶な不良ですね。
不良は特定の人を取り込む術を、無自覚に持っている気がします。
それに比べて、ジュリーは、圧倒的に美しい硬派なのだと思います。

               風の時代のモノローグより

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