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物化reificationは行動の代償か?①

物書きを除いては,趣味で文字を書くことは思考という営みを殺すことになるから,それがたとえ次の思考の土台になったり,批判を受け新たな視点を得ることになるとしても,果たして物象化するということが自己の生産性を邪魔しないかどうかという気分が濃厚になってきた.


卑近な表現を用いては,単純に,何かを書くということは非常に面倒くさい.億劫ここに極まれる.モチベーションの無いときの物書きなんか拷問に等しい,書きあがったらそれはそれで後で果たしてみると都合自分の書いた駄文の幼稚さ加減に,緩やかに絶望することの繰り返しでもある.

例を挙げれば,レポートや,公文書なんかは生産的な物書きである.百木は公文書を「活動の物化」のひとつであると評しており,「紙の公共物」は真理の境目を形成すると論じた(百木,2021).そうでなくても,レポートで言えば,同学部の優秀な先輩のレポートが取り上げられ,講義の題材となったり,拙文も大学の講義の冒頭で少しだけ紹介されたりもした.これらは評価の対象になるし,他に見せることを前提として書き,締め切りの存在し,書くことが自己目的化していないゆえ,生産を強制され,それが生産の内容それ自体以外に意味を求めることが可能である.しかしてレポートの内容について同級生について聞いてみても仕方なく書いたので大した内容じゃないとはぐらかされる場合がけっこうある.このような,自らの著作に責任を持たない態度が瀰漫するのは好きではないが,締め切りなくして焦りなし,外的動機の必要性くらいは皆さんも重々承知のことだろう.

反面,内的された動機に突き動かされた書き物というのは動機を担保するものは自らに求めるしかないから,創作者なんかはコメントやリアクションを求めるのは内的された動機を活性化させうる要因を外に求める.至極当然の論理.

先に書いた通り,書いたとしても必ずしも評価の対象とならず,あまつさえ目にも留まらない可能性すら孕む中,自己の内的された動機によってのみ生産される文章は,(思考を含む)行動ののちに払われるべき代償なのだろうか.確実性の下で正当化できる唯一の論理はマイルストーンかもしれない.思考を物化し,殺して,留めておくことは,自分がこうであったという真理を形成し,のちに自己について検討する際,変数化を可能にする.



(参考)百木漠(2021),「嘘と政治 ポスト真実とアーレントの思想」,青土社


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