大前光市&落合陽一「相互接続された世界」などを観に行きました
ぼくは高山という街が非常に好きだ。ほどよくシステムが過剰ではない。人と人の有機的なつながりが近くに見えて、観光地としても有名でありながら地元の人たちの生活は観光に依存せず、伝統的なマニュファクチャリングの原則を令和の今でも守っている。ということで高山は何度か通っていたのだが、縁あって知人が店をオープンするそうだったので、お祝いに行くと同時に展示とパフォーマンスを観に行くことにした。
落合陽一先生に関してはぼくは熱狂的なファンというわけではない(むしろ落合さんへの妄信はスノッブを招くので危機感を持っている)が、彼の見る"民藝コンテンポラリー"(*1)がどのようなものであるか知りたくて、ちょくちょく展示には足を運ぶことにしている。そもそも展示に行くのに理由は必要ない。アニマル・スピリットに従う。9日は高山祭にも関わらず、その前日に入ってそして高山祭の当日朝に高山を抜けるという、この文脈なくしてはわけのわからない道筋を辿ることとなった。
まずは今日オープンの知人の店、「あぶらえのお店 くあどろ」を訪問。彼はぼくの顔を見るや否や「はるばる東京からよう来たね!」と曇りなき笑顔で出迎えてくれた。これだよこれ。非常にコンヴィヴィアルだね。
https://instagram.com/aburae.il.quadro?igshid=OGQ5ZDc2ODk2ZA==
お店の前には祝い花が屹立していた。青一つない曇り空であったが、何ともせず咲き誇っている。彼は首飾りに五円玉をぶら下げ、「立ち話の間に縁結びになるようなお店を目指したい」と屈託ない笑顔で語っていた。ぼくにはこのご縁と五円玉の言葉遊びが少々まぶしすぎたが、しかし真正面からこれをやる覚悟は本物なのだと信じたく、彼の店の繁盛と、彼の店の周囲が和気あいあいとした(≒コンヴィヴィアルな)雰囲気に包まれることを願っている。そもそもくあどろさんの五平餅そのものが非常に美味しかった。普通の五平餅はさもありなん、さらにかぼちゃと五穀米のえごま(あぶらえ)もちは本当にグルメであった。米の跳ね方はもちろん、えごまの絶妙な甘味はご賞味いただきたい。テイクアウトで、五平餅自体が食べやすく出来ているので立ち寄るのも簡単だし、ぜひ皆さんも高山にお越しの際は立ち寄ってみてください。美味しいです。(予約するとより確実らしい。2023.10.9時点)
この記事は横浜から通勤電車に乗りながら書いているが、みんなスマホを見ていて、そこはかとなく悲しくなってきた。むろん酔っ払いが出てきて暴れてほしいわけではないのだが、過去イギリスで、Wembley駅から乗ってきたフットボールの何かのチームの熱心なサポーターがガチの「陽」で、おそらく酔っぱらっていたんだろうが、歌を楽し気に歌ったり周りの人たちを巻き込んでセルフトークショーを開催していたりとやりたい放題だった。あの時空間が恋しい。もう一度あたりを見渡すと、外を見つめる母と眠る子がいて少し安心した。恋人は存分にイチャイチャしたまえ。一人であれば外の景色でも見るか、本でも読むとよい。そんなに画面の向こうが大事なのかい。ぼくは内心を画面に投影している。
さて、ヌル即是計算機自然。インパクトある名前だが、日下部民芸館で行われているれっきとした展示である。
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000001.000126499.html
仏教観とデジタル技術の融合をいたるところで体感。オブジェクト指向菩薩については、「何か菩薩にわらわら線が絡まってるな~」とだけ思って、いざ現地で観察すると後ろにコンピューターらしき何かが刺さっている。そこから伸びていたのだった。さらによく見ると無数の線は全てギター等楽器に広く使われるシールドであった。3Dプリントは夢があるなあ。あとは彼らしいメディアアートだったり、ぬるぬるする(波形)の映像だったり。
特別面白かったのは黒電話だった。受話器を取り、今見えているものを話して、0を回す(そう、回す。押すではなくて、回す)。すると内容に応じて返答が変わる。これは面白かった!
しばらく時間を忘れて声の主と会話をしてみた。何が見える?という問いなので、「ようやく主意主義的な生き方について理解してきたが、もう大学の卒業も近く卒論と就活に追われぬるま湯のごとく社会に羽交い絞めにされる不安におびえる自分が見える」的なことを返してみた。なかなか現実の人相手だと初手で投げかけられる代物ではないような言葉も安易に言えるのが計算機を相手にする心地よさである。会って3秒で心の底。内面のスキューバダイビングを楽しむ。
夜になった。夕食は宿で摂った。夜の雨の日下部民芸館に長蛇の列ができる。東京のような風景である。頼むから高山にかような集中は起きないでほしい、と願いつつ、入場列に並ぶ。
いざ入ってみるとオンラインサロンのメンバーだけではなく、地元の人や、大前光市さんのファンや知り合いも詰めかけており、オーディエンスのバランスの良さに感心してしまった。これがオンサロのファンばっかりとかだったら少しゲンナリしていた。パフォーマンスが大衆に、つまり地元の人々にも理解されるもので少し安心したのだった。
ダンス…というより踊りは非常に洗練されていた。インプロダンスではっきりしたが、落合さんの動きもはっきりしていて素敵ではあったものの、動きの切れが違う。本物だと思った。最初の「始まりの呼吸 壱の型(落合陽一編曲)」では刀を使ったパフォーマンスであったが、ブンブン振り回すと思えば意外に静かであった。大前さん曰く「方向を意識」したそうだ。たしかに刀を持った彼の腕はとても穏やかであった。
さらに感動したのは「雨ニモ負ケズ」であった。文字通りの雨にも負けずである。あれは静と動の極致であった。というのは、一言一句に魂のこもった発音に、あちらこちらに縦横無尽に動いたかと思えば、繊細に腕を小さく動かしたり、身体というものをフルに使っていた。さらにこれについては落合さんのVJが見事にマッチしていた。彼のVJは、この曲では音と連動していた。モノクロの砂のようなものだった。大きい音がなれば粒がザッと動く。大前さんの動きの静と動がヴィジュアルに良く表れていた。
トークショー。落合さんが「結局誰も作ってないから自分が作るしかない」というおもくそ同人制作のスピリットを語っていて笑ってしまった。そこは人類共通なのか。
一つ踊りについて言及しないといけないことがある。大前さんは身体障がい者である(片足が膝の下から欠けている)。しかしこれを逆手に取ったパフォーマンスは本当に彼唯一無二のものであった。基本的に彼は義足を履いて(履かないで踊る時もあった)踊る。例えば能のような舞であればその義足は怪物の足めいて奇怪であったりさまざまであった。この発想とパフォーマンスには驚いた。下の写真の大前さんの左に写っている花差しは、実は義足である。
(*1)トークショーの中で「我々は民藝コンテンポラリーをやらないといけないんです。民藝クラシックは柳宗悦先生の話を流してればいい」という趣旨の発言があった
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