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暇と退屈の倫理学 序章

國分功一郎さん著書の『暇と退屈の倫理学』。
丁度よい登山のように読む進めるために頭に汗をかかせてくれて、知が刺激される。

何がなく生きている現代人が共通して感じる“暇”や“退屈”の正体を紐解き、どのように対応すべきかを記してくれている。

この題材を一冊の本にまとめるっって凄すぎる。
Amazonunlimitedで偶然借りるようにして、読み始めた同著。

とてもすべてをまとめることはできかねるので、その序章だけを少しまとめてみようと思う。

人間は“暇”になって何をしたい?

人間社会はどんどん便利になっている。
便利になるとはどういうことか?
それは、2つの余裕を得ること。

  • 金銭的余裕

  • 時間的余裕

確かに、我々は昔よりも確実に“余裕”を得ていると思う。
特に日本では、死ぬか生きるかと毎日必死になっている人はほとんどいない。

そこそこのお金と時間があるにも関わらず、己の人生に満足感が見い出せない人がほとんどではないかと思う。

テレビが提供する“楽しい”は楽しみなのか。

人は“暇”にはなりたいが、“退屈”は嫌いである。
だから、資本主義の原理を利用しながら、テレビやネットが提供してくる“楽しさ”を享受させられてしまう。

本当に食べたいのか? 本当に行きたいのか? もはやわからないが、テレビで放送されたスポットへ行き、お金や時間をそこに費やすのである。

過去の先人が本能的に“暇”を作ろうと築き上げた文明の先で現代人は“暇”なときに何をしていいのかわからない。
これの視点に深く関心させられると同時に怖さを感じてしまった。

打ち込める人が羨ましい

印象的な一文がある。

人は自分を奮い立たせるもの、自分を突き動かしてくれる力を欲する

だから、何かに盲目的に打ち込んでいる人を羨ましいと思う。
さらに、それでいて結果を出していればなおさらである。

確かに高校球児やオリンピック選手、職人さんなどなど。
何かに打つ込む人は美しい。が、打ち込むには怖さも伴う。

本気でサッカーをやる、野球をやる。または、大衆から人気を得るようなタレントや役者・アーティストになる。

1つに没頭し、時間やお金を費やすことは怖い。
それは、不安だからである。
結果は出ないかもしれないし、親や周りの友達からどう見られるかが気になる。

私も心当たりがあるので、よく分かる。
そういう意味でも“打ち込める人”は羨ましい。

暇と退屈との正しい向き合い方

でも、明日の生死に気を回しているような人間は没頭している人を羨ましいなど思わない。 思う余裕がない。
そういう意味では現代人は幸せである。

だからこそ、意図的に“没頭する” “真剣になる”ことを自らどう作り出せるかをすごく考えさせれる。

序章だけだが、頭の体操になったので、少し記してみた。

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