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雨の会議室でサヨナラではないサヨナラを聞いた。

社会人になって4ヶ月目に入った7月のある日、同じ部の先輩が最後の出社日を迎えた。その日は一日中雨が降っていて、僕のいるフロアからどんよりとした分厚い雲に覆われた東京が一望できた。

その先輩と直接会うのはこの日が初めてだった。基本的にみんなリモートワークだから、顔を合わせることはない。リモート会議で顔を見たことはあったけど、新入社員の僕は6年目のその人と話すことは一度もなかった。

「はじめまして」

朝、ちょっと早く出社するとその先輩は既にデスクにいた。4ヶ月経ったのに「はじめまして」なんて挨拶も変だが、直接話すのは初めてだったから仕方がない。

「やあ、新人の中島くんだね。やっと会えたのに今日が最後なんて、今っぽいなあ。」

6年目ともなるとだいぶ先輩だが、威圧感のない温和な雰囲気の人だった。彼が会社を去るのは転職でも起業でもなく、駐在で中国に行くためだった。学生時代に北京に留学していたらしく、彼にとっては喜ばしい異動だった。

お昼、彼に誘われランチに行った。会社の近くには煮魚の美味しい手頃な値段の定食屋があって、彼も例に漏れずそこのファンだった。

「もう、これが食べられるのも最後かなあ。」

喜んでいるのか悲しんでいるのか分からない声のトーンで、彼は煮魚をつついた。

「中島くんはさ、何でこの会社に入ったの?」

面接で話したような、当たり障りのない返事を返す。

「そっかあ。なるほどね。ちなみに海外とか仕事で行きたいなとか思わないの?」

ちょっと考える。

「あまり思わないです。日本が過ごしやすすぎるのと、仕事で行っても大変なことが多すぎる気がして。」

半分は本当で、半分は嘘な、これも当たり障りのない答え。

「そっかあ。ちなみに僕は何で中国に行くんだと思う?」

「何でですかね......前に留学で行ってたからですか?」

「それもあるよ。でも一番はね、このまま日本にいても僕の仕事がなくなっちゃうからだよ。」

仕事がなくなる...?

「今さ、AIとかDXとかでさ、どんどん人間ができる仕事って減ってるんだよ。君もさ、この仕事してみてちょっとは思ったんじゃない?こんなの人間がやらなくてもいいじゃんって。」

その通りだった。今の僕の仕事は退屈だ。こんなのわざわざ僕がやる必要がないなと、正直な所思っていた。

「だからさ、僕の仕事も、もうすぐなくなっちゃうのよ。で、何が大切かっていうと、ほとんどの日本人がまだ持ってないスキルなわけだよ。中国なんかはさ、みんな必死に勉強していてすごいんだよ。だから僕もさ、向こうでいろんなことを学んで、仕事を取られないようにしなきゃダメなんだ。あ、もうこんな時間だ。戻ろう。」

お会計を済ませ、僕らはオフィスに戻った。ちょうど雨脚が強くなった時間で、傘を刺しても靴下が少し濡れてしまった。最終出社日には不向きな天気だった。


その後、終業時間から会議室で送別会が行われた。送別会と言っても基本的にみんなリモートワークだから、5人くらいしかその場にいない。あとのメンバーはリモートで参加していた。

送別会の準備をしながら、窓の外を見る。高層階から見える東京は、曇り空のせいでいつもより灰色だった。近くに大きな公園がありいつもは綺麗な緑が輝いていたが、この日は霧に飲まれていた。

会が始まると、まずは部長が挨拶をした。

「〜さんには主にあのプロジェクトで多大なる貢献をしてもらいました......」

「ぜひ中国でも持ち前のリーダーシップを発揮して......」

パチパチパチ。30人は入る会議室に、5人の乾いた拍手が響く。そして最後に先輩の挨拶。

「皆さん、今日はお忙しい中、このような会を開いてくださりありがとうございます。この部に配属されてから早5年が経ち......」

5年。5年。5年。

あまりに長い。まだ仕事の何が面白いのかも全く分からず、むしろこのような執筆活動と比べると遥かにつまらないなと思っていた自分には、あまりに果てしのない時間だった。

「......というわけで本日で当部での業務を終了します。皆さんありがとうございました。サヨナラ。」

パチパチパチ。

花束と色紙を渡して会は終わった。

「中島くん、ありがとう。分からないことだらけだと思うけど、頑張ってね。ランチに行けてよかった。また会う日があったら、ぜひ。」

これが彼と交わした最後の会話だった。

送別会後、一人で会議室を片付けながら、僕は雨の東京をぼんやりと眺めていた。これは、一体何の送別会だったのだろう。

彼は、場所は中国に移れど、また同じ会社に所属する人間として明日からも働く。

「僕もさ、向こうでいろんなことを学んで、仕事を取られないようにしなきゃダメなんだ。」

彼の言葉の通り、遊びに海外に行くわけじゃない。次の労働をすることで、また次の労働の保証を得るために働くのだ。これは、自由だろうか。

機械が仕事を奪うから、奪われないように勉強する。一見至極真っ当なように聞こえるが、僕にはそうは思えなかった。奪われたっていいじゃないか。仕事が消えたって。つまらない仕事なんて、消えちゃった方がいいじゃないか。

むしろ、仕事しなくたって生きていける社会の方が、幸せじゃないか。なのに、なぜ仕事を得るためにわざわざ自分の貴重な時間を費やすんだろう。

窓の外には数え切れない数の高層ビルが所狭しと並んでいる。この雨の中、濡れたコンクリートと曇ったガラスの箱の中で、数えきれない人たちが、労働をしている。楽しいなら素敵なことだ。だけど、中には楽しくない人もいる。きっとそういう人が大多数だ。僕も楽しくはない。楽しくないのに何でこんなことに時間を割かなくちゃいけないんだと思いながらも、労働をしている。その繰り返しをこの先もずっと続けるのは、無理だと早くも思い始めていた。

彼は新卒の僕にも優しい、いい人だった。だけど、僕にとっては自由じゃない考え方に捉われているように思えた。仕事はしてもしなくてもいいし、会社に依存しない方が自由だ。僕としては会社にしがみつく人生より、自分の力で経済的自由を手に入れる方向で努力をしたい。

「サヨナラ」と彼は言ったけど、それは終わりのない労働へのサヨナラではなかった。東京にサヨナラをしても、中国で新しい労働が待っている。中国での労働を終えても、また東京に戻れば東京の労働が待っている。労働を得るために労働をするんだから、当たり前だ。むしろ彼はそれを望んでいるのだから。だけど、それじゃあ一体いつ、労働と本当のサヨナラができるのだろうか。機械に仕事を奪われたら、彼の人生は終了するのだろうか。

働くことは素晴らしいことだ。その労働に価値が、楽しさがあるのなら。でも価値も楽しさもなく、ただ生きるための手段として労働があるのなら、ただただ苦しいだけだ。短い人生、苦しい思いはできるだけ短く済ませた方がいい。

僕一人しかいない会議室。雨に濡れた高層ビル。

資本主義ど真ん中の、一丁目一番地。労働と自由と、幸せと本当のサヨナラとは何かを考えた午後6時。

雨の日は物思いにふけるのも悪くない。

最強になるために生きています。大学4年生です。年間400万PVのブログからnoteに移行しました。InstagramもTwitterも毎日更新中!