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セレンディピティに出会うには

「セレンディピティ」という言葉がある。最近知ったこの言葉には「素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見すること。また、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値があるものを偶然見つけること。」という意味がある。さらに簡潔にまとめれば「ふとした偶然をきっかけに、幸運をつかみ取ること。」になる。

この言葉はイギリスの小説家が1754年に作った造語らしい。小説家であるホレス・ウォルポールが子供の頃に読んだ『セレンディップの3人の王子(The Three Princes of Serendip)』という童話に出てくる3人の王子たちは、旅の途中、思いがけない出来事に何度も遭遇する。その度に彼らは持ち前の聡明さを発揮し見事に立ち回り、新たな発見をしていくのであった。セレンディップとはセイロン島、つまり現在のスリランカを意味する言葉であり、ホレス・ウォルポールはこのセレンディップにちなんで「セレンディピティ」という言葉を作り出した。

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セレディピティという言葉を知ったのは最近だが、僕の半生を振り返ってみると、思わぬセレンディピティによって大きく進む道が変わったと思わずにはいられない。

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思いがけない偶然から幸運を掴んだ経験はみなさんにもあるだろう。

小説家・村上春樹は1978年4月1日、明治神宮野球場でヤクルト×広島の開幕戦を外野席の芝生に寝そべりながら見ていたそのとき、ビールを飲みながら観戦中に小説を書くことを思い立った。1回裏、ヤクルトの先頭打者のデイブ・ヒルトンが左中間に二塁打を打った瞬間のことだったという。

これはまさにセレンディピティだ。その日、球場に行かなかったら。外野席の芝生に寝転んでいなかったら。1回裏、ヤクルトの先頭打者のデイブ・ヒルトンが左中間に二塁打を打たず凡打に倒れていたら。村上春樹が小説を書くことはなく、「ノルウェイの森」や「1Q84」といった作品は生まれなかったのかもしれない。

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僕自身、セレンディピティによって数えきれないほど貴重な経験ができたことが何度もある。

中学生の頃、部活帰りに何となく立ち寄った古本屋で、とても綺麗な表紙の本を見つけた。その作家も、その本の題名も全く聞いたことがなかったが、表紙に目を惹かれたという理由だけでなけなしのお金でその小説を買った。そのとき手にとった森博嗣のスカイ・クロラという小説に感銘を受け、僕もいつか自分の手で文章を書いてみたいと強く思った。小説の魅力を文字に起こすことは難しく、読んでみなければ分からないが、今の僕の物の考え方や行動は少なからず彼の著作の影響を受けている。

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おそらくあの日、何となく「古本屋に立ち寄ろう」と思わなければ、今の僕は存在し得なかっただろう。今頃、全く別の人生を歩んでいたに違いない。あの日、たまたま古本屋に立ち寄った”セレンディピティ”によって、僕の今があると言っても大袈裟ではない。

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他にもセレンディピティはいくつもあった。大学3年生の6月。僕は友達と朝まで遊ぶ約束をしていて、日付が変わる0時に六本木駅に降り立った。しかし肝心の友達が急用ができたと言って来れなくなり、終電もない僕はあてもなく深夜の六本木を彷徨うことになった。六本木交差点から東京タワーの見える大通りを、酒を片手に大騒ぎする大人たちを避けながらあてもなく歩いていると

「やあ。ここらへんでオススメのクラブはないかい?」

と声をかけてきた外国人がいた。

「どんなところがいい?実は今日予定がなくなっちゃって、もしよかったら僕もついていくよ」

そう答え、僕は彼と朝までクラブにいた。彼はマレーシアから来た観光客だった。そして偶然にも僕は、2週間後に人生初の一人旅をマレーシアでする予定だった。しかもなぜマレーシアを選んだかと言えば、航空券が安かったという理由だけだ。完全なる偶然だった。

2週間後、僕は彼とマレーシアの首都クアラルンプールで再会した。2泊3日の短すぎる旅行だったが、その間ずっと彼の車でクアラルンプールを案内してもらった。彼の友達を紹介してもらい、彼の実家にも遊びにいった。何も知らない国で、まだお互いをそこまで知らないもの同士が再会し、誰も経験したことがない旅をすることができた。これは僕の一生の思い出だ。もしあの日、友達と予定通り会っていたら、こんな運命の出会いはなかった。これも間違いなく”セレンディピティ”であり、他にも度重なるセレンディピティによって、僕は思わぬ幸運を掴んでいることは間違いない。

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ここまで僕が体験したセレンディピティを2つ紹介したが、ここでぜひ皆さんも自分が体験したセレンディピティを想像してみてほしい。多かれ少なかれ誰にでも経験があるはずだ。

僕にとってこのセレンディピティは、創作活動において非常に重要な要素である。なぜなら、何か書きたいという情熱は、偶然出会った出来事によって掻き立てられるものであり、椅子にじっと座っていても湧き上がってくるものではないからだ。

事実、このセレンディピティという言葉も近所の本屋で立ち読みしているときに偶然目にした。

「なるほど、僕の今までの偶然の幸運はセレンディピティというのか」

以後、数日間僕はセレンディピティについて頭の中で考えた。それを今こうして文字に起こしているわけである。たまたま本屋で手にとった本のおかげでこの記事を書いているのだから、これも立派なセレンディピティだ

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しかし一方で、このようなセレンディピティに出会う機会は、今現在激減している。自由に外出できない物理的な制限のためだ。旅行にも行けない、レストランで自由に食事もできない、そんな条件下では思いがけない偶然に出会う機会が減ってしまう。じっと部屋の椅子に座っていても、セレンディピティは訪れないのだ。

一方でこの現状から逆算すれば、どうやってセレンディピティに出会う機会を増やせばいいかが見えてくる。それは簡単。とにかくいろんな場所に出かけて、いろんな人と話して、いろんな経験を積めばいいのだ。

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僕は海外旅行が好きだ。とりわけ一人でよく分からない国に行くのが好きだ。死なない程度の予備知識さえ身に付けたら、あとは地図も持たずに街中を歩きたい。ガイドブックにはない、寂れた路地裏の食堂や、人気のない公園やバーにこそ偶然の出会いは転がっている。

簡単に「旅で価値観が変わった」と言う人はあまり好きではないが、それでもやはり旅を通じて偶然の幸運に出会う可能性は高い。それは全てが知らない世界で、何もかもが新鮮だからだ。

別に海外に限らなくてもいい。行ったことがない都道府県に旅行するのもセレンディピティに出会うきっかけになるだろう。

結局のところ、じっとしてはいられなくなるような強烈な創作への情熱は、リアルでの経験がないと生まれないのだ。いくら技術が発展し、VRで異国の地を部屋にいながら体験できるようになっても、現地に行く経験には勝てない。少なくとも僕は実際にその足でその国の土地を踏みしめたい。

この状況が落ち着いたら、多くの人が再び旅に出るのは間違いないと僕は思っている。 

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そしてセレンディピティに出会うためには、飛行機や車に乗らなくても構わない。いつもと違う、ちょっとしたスパイスを日常に加えるだけでいい。僕の場合は、よく駅からの帰り道、いつもと違う道で帰っていた。実家にいたころ、最寄駅から家まで自転車で15分ほどかかった。僕はできるだけ毎日違う道を通るようにしていた。いくら住み慣れた街とはいえ、全ての道を通ったことがあるわけではない。

曲がったことのない角を曲がると、見たことがない神社があったり、こじんまりとしたカフェがあったり、その都度新しい発見があった。創作をする人間である限り、こうした合理性を度外視した行動も大切にできる人間でありたい。

何度も言うように、椅子に座っているだけではセレンディピティは訪れない。1秒でも早く仕事をするには、寄り道などせずに直行直帰するのが理想だ。しかし僕は機械のように仕事をするわけではない。偶然の幸運をパッと掴むことの方が遥かに重要なのだ。歳を重ねても、こういった偶然を見逃さないような感性を忘れずにいたいものだ。

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セレンディピティは一見無駄に見える過程の中に潜んでいる。しかし「幸運な偶然」という言葉の通り、これは偶然起こる出来事である。

要するに確率の問題だ。

試行回数が多ければ多いほど、引き当てる回数は多くなる。そのためには外に出て、まだ行ったことのない世界に一歩踏み出すしかない。創作に限らず、仕事においても勉強においても、セレンディピティは重要な要素だ。思いがけない偶然をきっかけに新しいものは生まれる。

ふとした偶然を掴む、チャンスの前髪を逃さないような人間でこれからもありたい。

それでは素敵な1日を。



僕のマレーシア旅行についてはブログにまとめてあるのでぜひ読んでみてください。



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