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努力や才能が意味を持たなくなったら

ChatGPTはじめ生成AIが世に出た。もうこのブログを読んでる人で使ったことがない人はいないだろう。ビジネスメールもサクッとどんな言語でも買いてくれるし、Excelだって作ってくれる。レポートや議事録の要約、アイデア出しだって、適切に指示を出せば自分よりも早く捌いてくれる。

AIによって仕事が奪われる、なんてつまらないことを言うつもりはない。ないのだけど、この先AIが発展してどんなことも人間以上に処理してくれる世界がやってくると、究極は「なぜ人は生きるのか」という問いに僕たちは答えなくてはいけなくなる、気がしている。

みんなは何に生きる価値を感じているだろうか。僕は明確に答えがあって、それは「昨日までできなかったことが今日できるようになった、その興奮のため」だ。興奮のために生きている。

昨日まで解けなかった数学の問題が、今日解けるようになった。
昨日まで持ち上げられなかったベンチプレスが、今日上がるようになった。
昨日取れなかった契約が、今日営業に行ったらやっと取れた。

つまり僕は、過去と現在の自分の差分に興奮している。差分とはできた/できないの差のことで、できなかったことができるようになると、嬉しい。もちろんそれは僕だけじゃなくて、誰だって嬉しい。僕に限らず多くの人が過去と現在の自分の差分に高揚感を覚えている、はず。

AIが発達していくと、究極には過去も未来も自分の実力に差分がなくなってしまう。なぜなら生成AIはなんでもやってくれるから、自分が成長しなくても最初から100点満点の回答を出してくれる。つまり、努力や才能が意味を持たなくなる。

頑張って勉強したり経験を積まなくても最初から100点が出せるなら、努力する必要はない。得意なことでも苦手なことでもAIが最高のクオリティで仕事してくれるなら、才能は必要なくなる。個人の能力に差がなくなり、これまでにないくらい公平な世の中がやってくるわけだ。

みんなが待ち望んでいたはずの、公平な世界。貧乏人も金持ちも、背が高い人も低い人も、運動が得意な人も音痴も、男も女も、どんな違いも意味を持たなくなる。なぜならAIがどんなことも一瞬で一発で100点を出してくれるからだ。どうだろう、こんな未来は。

おかしい。どうにも楽園、ユートピアのようには聞こえない。どちらかと言えばディストピアのようだ。あれおかしいぞ、誰もが望んでいた”平等”な世界のはずなのに。本当に平等な世界は、なぜか物寂しそうだ。それは僕たちが努力や才能に生きる意味を感じているから?なのか。

-5年前、ある青年がネットにブログを書き始めた。彼の、それまでの20年間の人生で見たり聞いたりした経験をしたためたブログだった。補助輪を外した自転車から幼児が転げ落ちてしまうように、彼の書いた文章は拙く、彼が何を言いたいのか、とてもじゃないが理解に難しい稚拙な出来だった。

しかし偉大な一歩目、つまり人生で初めて誰に題目を与えられるでもなく、自分の意思で文章を書いた彼は、血湧き肉躍る興奮を味わっていた。

「俺は俺の手で、この世にないものを生み出したんだ。これは、唯一無二の文章なんだ」

青年はそのとき心の底から感じたのであった。創作活動によって得られる興奮を-


私がブログを書くのは、創作活動によって得られる感動は、消費によって得られる感動よりも持続性があり、高い次元での興奮と没頭が体験できるからだ。初めてブログを書いたあの日から、それを実感した。

いや、もっと前から実感していた。幼稚園ではじめて絵を描いたとき。小学生で工作コンテンストに出品したとき。中学生でPCで文化祭のポスターをデザインしたとき。高校生で好きなアーティストの自作MVを編集しネットにアップしたとき。

創作活動によって得られる感動や興奮は、お金とのトレードオフで得られる消費型の娯楽よりも、遥かに大きかった。それは作品の巧拙に関わらず、この世にないものを生み出す、というその一点のみへの情熱から生み出される興奮であり感動であった。


努力や才能が意味を持たなくなったら。
僕たちは本当の意味で創造的になれるのかもしれない。

巧拙関係なく、自分が生み出したいものを時間もお金も考えずに生み出せる世界が来るかもしれない。
なぜならお金のための労働は大半をAIがやってくれて、僕たちには膨大な時間だけが残るからだ。

そして同一の価値基準で何かを競うものは全て機械が最初から100点の回答を出してくれるので、競争自体がなくなる。

僕たちは残された努力や才能が意味を持たない膨大な時間の中を生きることになる。

その世界で僕たち人が寝食を忘れ没頭できることこそが、創作活動だと、僕は思う。上手い、下手くそは関係がない。各々が作りたいものを作る。例え努力や才能が意味を持たなくなっても、創作活動によって得られる興奮は天井がないから、僕たちは生きる意味を実感しながら歳を重ねることができる。


久しぶりにブログを書いた。書くことはやはり楽しい。渋谷の外れにあるカフェ。性別も年齢も国籍もバラバラの人々の会話が混ざり合い、耳に心地よい音となり、筆が進む。夏至を過ぎたが陽はまだまだ長く、賑やかな店内に差し込む光は正午よりも柔らかくなった。

どこにでもある日常の些細な瞬間をも自分の言葉で一場面として切り取り、誰かに伝えることができるのも創作の楽しさ、魅力であろう。

コーヒーを飲み干し、席を立つ。
書きたいことがたくさんある。

最強になるために生きています。大学4年生です。年間400万PVのブログからnoteに移行しました。InstagramもTwitterも毎日更新中!