フィルム_フェスタ

『さよなら僕の性格』第20話 倫理

哲学に救いを求めて、必死で哲学を学び続けた。

学べば学ぶほどわかった。哲学は人の心を救うためのものではない。むしろ、たとえ心が傷ついても、崩壊しても、真実を求めるのが哲学だった。ニーチェなどは、最終的に発狂したという。発狂がどんなものか見たことはないし、詳しい経緯は知らないけど、哲学とはどうもそういうものらしい。

哲学に対するイメージはだいぶ変わった。「若さとは、過ちを恐れないということである」みたいな格言を言うのが哲学だと思っていた。でも、それはどちらかと言えば文学である。

哲学はもっと厳密で、独断を許さない、数学や科学のような学問だった。誰が聞いても納得できる真実を追究するのが哲学だった。デカルトは哲学のために、数学を学んでいたという。そのくらい、緻密で論理的な思考が哲学には必要なのである。

「これが俺の哲学さ!」と語られる格言は、実際には個人的な感覚に基づいた、ただの「こだわり」で、本物の哲学とはほど遠い。むしろ、そんな立派に聞こえる格言の中に含まれる決めつけを「それは決めつけだ。ドグマだ」と許さないのが哲学の態度である。

その後も、哲学は趣味のように学び続けることになる。

常識を疑い、真実を求め続ける哲学。そのセンスが身について、常識にこだわらなくなり、人と違う生き方を恐れなくなる。そうして今の僕が作られていく。……まあ、それはまだ先の話だ。


ちょうどその頃、学校で倫理の授業が始まった。

倫理の授業も哲学史を最初からだから、ギリシア哲学から始まる。

『ソフィーの世界』で予習していた僕にとって、授業は楽勝だった。それどころか、授業の流れなど無視して、先へ先へと、どんどん教科書を読み進めていた。哲学の面白さがわかるようになっていたし、まだまだ僕の知らない思想家や哲学者がたくさん教科書には載っていた。

いろいろな思想家の思想が、端的にまとまっている倫理の教科書。これなら僕の求める、人生を変えてくれるようなすごい考え方に早く出会えるかもしれない。

僕はとにかく、「これだ! この考え方で生きていくんだ」と心の軸になるような思想に出会いたかった。

その一心で、家でも、授業中でも、夜寝る前の布団の中でも、教科書のページをめくり続けた。

次に出てくる哲学者が、僕を救ってくれるかもしれない。すごいことを教えてくれるかもしれない。次のページをめくったら、「そうだったのか」って、全ての悩みがすっと吹っ飛んでしまうようなことが書かれているかもしれない。

次のページこそ、次のページこそ……。

そんな気持ちで教科書を読み続けた。勉強をしているなどという気持ちは全くなかった。ただ救いを求めていた。誰でもいいから僕を助けてくれと……。

当然、倫理は得意教科になっていた。普段から貪るように教科書を読んでいるのだ。試験のための勉強など、ほとんどしなくても問題なかった。

あるとき、予備校主催の全国模試があった。記述式の試験。

倫理の成績に驚愕した。全国第6位。

クラスでとか学校でとかじゃない。全国でである。比較的倫理の受験者は少ないとはいえ、数万人はいる。その中の上位一桁。

これは素直に嬉しかった。こんな僕でも、真剣に何かに取り組めば、全国で一握りの存在にだってなれるんだ。

大学受験でも、倫理を受験に使えば大きな武器になる。

少し自信が回復した気がした。

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