1月1日がなぜ今日なのか?
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
令和6年元旦
弁護士 中弘 剛
1月1日はなぜこの日なのか?なぜ今日という日が1月1日なのか?
なぜ1月1日はこの日なのか?
なぜ1年に365.25日もある日のなかで今日という日が1月1日、年初、正月なのだろうか?
調べてまとめてみた。暦の専門家ではないので、自分で裏はとってね。
自然の時の流れは連続していて初め終わりなど決まっているものではないので、人間が時の流れに人工的に「1年」といく区切りをつけ、区切るときに決めた、1年の始まりと終わりの時点を年界という。
太陽の運行で暦をつけるのであれば、区切る基準を1年で日が一番短い冬至、一番長い夏至、日夜が等しい春分、秋分である方が分かりやすいのでないのか?
旧暦では立春に近い朔日(新月)が正月とされているが、なぜ太陽暦(グレゴリオ暦)ではこの時期に年界を定めているのか?
1 日本では明治6年にグレゴリオ暦を採用したから。
現代日本で法律的に回答するならば、明治5年太政官布告第337号により、明治6年にグレゴリオ暦を採用したからということになろう(以下「明治の改暦」という)。
明治6年の改暦により、飛鳥時代の元嘉暦から用いられてきた太陰太陽暦を捨て去り、旧暦(天保暦)12月3日をもって太陽暦である明治6年1月1日であるとした。
ところで、太陽暦とは具体的に何を指すかは実は規定がないが、当時西洋社会で通用していた「グレゴリオ暦」が採用されたとされている(エジプト暦やユリウス暦ではないのだろう…)
その後、太陽暦に従って暦を重ね、本日が令和6(2024)年1月1日なのである。
なお、明治の改暦の理由は、表向きは、上記上諭のとおり「太陽暦は太陰暦比べて最も精密にして便利だから」、西洋諸国の例にならったと説明される。
しかし、実態は、天保暦(旧暦)では明治5年は閏月があったせいで13か月あり、そのせいで国家公務員の給与が1か月分多く払う必要があったが財政難から、1か月をなくすためだったとされる。
(改暦の布告の内容については、閏日の内容も含めてその詳細を改める)
では、グレゴリオ暦では、今日という日が1月1日なのだろうか?
2 グレゴリオ暦では、春分の日を3月21日としたから
グレゴリオ暦とは、ローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦の改良を命じて作成されたことに由来し、1582年から運用され始めている。
(1500年代といえば、前半からルターやカルヴァンといった宗教改革が行われていった時代であり、1549年にはカトリックの一派であるイエズス会の伝道師フランシスコ・ザビエルが日本に来ている。)
グレゴリウス13世が改暦をしたのは、当時運用されていたユリウス暦で計算された春分の日と、現実の天文学的な春分(太陽が春分点(天の赤道を南から北へ横切る点)を横切ること)との間に差が生じていたからである。
春分の日は、実はキリスト教徒には、極めて重要な日らしい。なぜなら、復活祭の日を決める基準になるからである。私は同志社大学出身だが、そのような行事に参加したことがなく、全く実感がわかない(あるのかどうかも知らない…)。
復活祭とは、磔刑にされて死んだイエス・キリストが3日目に復活したことを記念する、キリスト教では最も重要な祭とされている。復活の主日、イースターなどと呼ばれている。
そして、復活祭の日は、「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」とされており、毎年日付が異なる移動祝日とされている。
このように、復活祭は、春分の日が決まらなければ決まらないことになる。
西暦325年、キリスト教を公認したコンスタンティヌス帝により、第1ニケーア公会議が開かれる(ニケア、ニカイア、ニケイア)。
世界史的には、アタナシウス派の神・キリスト・精霊をひとつのものと信じる「三位一体説」が確立し、アリウス派が退けられたと説明される。
この会議において、キリスト教の祝祭日は、ユリウス暦によることとされ、復活祭は、「春分日であるユリウス暦3月21日の後の最初の満月の次の日曜日」と定められている。
ユリウス暦は、エジプトの太陽暦を発展させて、共和制ローマのガイウス・ユリウス・カエサルにより紀元前45年から運用されていた。つまり、ユリウス暦はキリスト教徒は関係なく運用され始めたが、325年からキリスト教において正式に運用され、その後1600年以上にわたり運用されていたことになる。
そして、西暦325年のユリウス暦における春分日が3月21日であるため、その後も、復活祭は、ユリウス暦の3月21日を基準として決められていた。
ユリウス暦は、平均太陽年を365.25日とし、1年を365日とし、4年に1回1日の閏日を入れるというものであり、概ね正確であった。
しかし、実際の太陽年は約365.24218944日であり、天文学的春分日とユリウス暦による春分日との間に約1600年で10日以上のずれが生じていた。
そこで、グレゴリウス13世は、新たな暦法を用いて第1ニケーア公会議があった西暦325年の春分の日と一致確定させて、その後の暦を作成したのが、グレゴリオ暦である。
グレゴリオ暦はユリウス暦に比して精度が高く、天体の運行と一致することとなり、春分の日は3月19日から3月22日までの間となった(精度については天体の運行に変動があるため完全には一致しない)。
というわけで、結論であるが、
グレゴリオ暦においては、325年当時の春分の日を3月21日と定めた(その後も、概ね天体の運行に従った春分の日を定めた)結果、それを1月31日間、2月28日間、3月20日間を逆算して、西暦325年1月1日が定まったから。
その後も、春分の日の79日又は80日前に1月1日がくることになる。
3 最後に所感
気になって調べてみたが、グレゴリオ暦が春分の日を基準としていることは分かったが、その理由がキリスト教にのみあることに驚いた。
暦とは、西暦(グレゴリオ暦)にしても、元号制にしても、政治的宗教的なものとは切り離せないものだということか。
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