村上春樹著 「ノルウェーの森」を読んで
今回は、村上春樹さんの『ノルウェーの森』です。
たぶんですが、私が少なくとも日本人の中では一番読み返している人間だと思っています(別に、他人と比べることではありませんが)。
回数でいえば、百回以上は通読したと思います。それも、読むだけでなく、頭から模写していったこともあります。
20代の頃は、ほぼ全文を記憶していて、会社の余興で披露したこともあります(まったくウケませんでしたが)。
ノルウェーの森という小説は、言うまでもなく村上春樹(敬称略)の代表作です。当時、最大の大ベストセラーでした。あまりにベストセラー過ぎて、さらには以前の作品と若干テイストが違っているということもあり、熱烈なファンを称するハルキスト(村上主義者)たちからは嫌われていたり、あれは違うと言われたりしています。
しかし、かつて幻冬舎の見城さんのエッセイの中で、「現代に残っている古典作品は、すべて当時の大ベストセラーだった」。というフレーズがあります。人知れず残った名作などあり得ないと。
確かに、それは文学作品に限ったことはありません。漫画においても同人誌ではとても有名だったという作品が、永遠の名作として残ることはありません。
私は村上春樹の大ファンなので、たくさんの作品が、こうした時の洗礼から残って欲しいとは思っていますが、図書館の一つの棚を占める過去の偉大な作家の全集を開いても、知っているのは1作か2作ぐらいです。そうだとすると、村上春樹さんの作品で、百年後に残っている(別に残そうと思っていないかもしれませんが)のは、『ノルウェーの森』だけかもしれません。
そして、この「ノルウェーの森」ですが、ストーリーは簡単に言ってしまえば恋愛小説です(と思われています)。
ストーリーを話してしまうと、自殺した親友の恋人に恋をして、失恋する話です。最後に、その恋人(直子)も自殺してしまうのですが、主人公は、物語の中で、これを何とか救おうとします。
そして、このキズキ君という人物は、主人公とは高校時代の大親友でした。彼らは、彼女である直子を含めてよく三人で遊びに行っていました(直子がもう一人女の子を連れてくるのだが、しっくりこない)。
このキズキ君が死んでしまうことで、この恋人である直子という女性は精神のバランスを崩して、しだいに死に引き寄せられるようになっていきます。
といった話ですが、私がこの作品をなぜ、何百回も読み直したかというと、
この恋愛模様のところでなく、このキズキ君という人物がとても好きなのです。
この人物は、村上春樹の初期の「風の歌を聴け」から始まる三部作に出てくる、「鼠」というあだ名の登場人物にどこか似ています。おそらく生き延びていたら、鼠みたいな大人になっていたかもしれません。
彼は物語の序盤でそうそうに自殺してしまうので、自らについてはほとんど語りません。すべては主人公や、直子の口から語られます。そのキーワードは「弱さ」でした。
しかし、彼女はこう言います「彼の弱さも好きだった」と。
彼は死ぬまで、自分の弱さを認めませんでした。だからこそ死ぬしかなかったのです。
鼠は三部作の最終話「羊を巡る冒険」の中で、こう言っています「自分のつらさや弱さが好きだ」と。彼は、世界の究極の真実を手に入れるよりも、自分の弱さを選んで死んでいきます。
このノルウェーの森の中で、このキズキ君と真逆のキャラクターだと思われがちな永沢さん(東大法学部の学生、親は病院経営、イケメンで、女性にもてる)ですが、何回も読み返す内に、永沢さんという人物は、実はキズキ君は同じ弱さを抱えていて、キズキ君とは同じ「弱さ」を持つ、コインの裏表の存在なのではないかと思うようになりました。
永沢さんが話す言葉は、どれもが名言ばかりです。あくせす働く巷の人たちに対しては「それは努力とは言わない、ただの労働だ」、官僚を目指す学生に対しては「ほとんどは底なし沼に入れたいようなゴミだが」、「人に理想は必要ない、必要なのは理想ではなく行動規範だ」、「紳士であることだ」、「自分に同情するのは下劣な人間だ」等々。
そして、二人の共通点としてとても弁が立ちます(キズキ君の場合は限られた集まりの中で)。それぞれにハツミさんという女性や、直子のような魅力的な恋人がいます。
永沢さんは、外交官を目指しています(それも、いとも簡単に試験に合格してしまう)。「国家という器の中で、自分がどこまでかいけるか試してみたい」という希望があるだけで、権力欲や金銭欲というものを持ち合わせていません。それは女性達に対しても発揮されます。究極のエゴイストと自任し、誰とも結婚する気ないと公言しています。
そのことを知っていながら別れることができないハツミさんは、永沢さんが外交官としてドイツに赴任した数年後、絶望して他の登場人物と同じく自ら命を絶ってしまいます。
「弱さ」とはいったいなんでしょう。これも羊を巡る冒険からの引用になりますが、「道徳の弱さ、存在の弱さ、意思の弱さ」なのかもしれません。
キズキ君は言うまでもないですが、一見リア充の永沢さんも、実はこの三つを持っています。意思の弱さなどまったくないように思えますが、それが逆で、人に背中(弱さを表す)を向けるぐらいなら、平気ナメクジを食べてしまうぐらい、弱い自分を日々強化しているのです(これは主人公のセリフにあります)。ただ紳士であるべく。
この二人の弱さのあり方と、その乗り越え方は二人を真逆の生き方に向かわせます。キズキ君は自殺、永沢さんは「やりたいことではなくやるべきことをやる(彼が言う紳士の定義)」、「自分の力を百パーセント発揮してやれるところまでやる。欲しいものはとるし、欲しくないものは取らない」と言いながら。
しかし、その結果はいずれも自分を愛してくれた恋人を不幸にしてしまいます。
この「弱さ」というものは、村上春樹が初めて取り扱ったテーマではなく、まさしく明治以来から続く、歴代の小説家たちが扱う一大テーマでもあります。
生まれながら、宿命的な弱さを抱え、世の中にうまく適合できない人は、いったいどう生きるべきか、どう生きていったらいいのか。弱さを、どうやったら乗り越えられるのか。果たしてそんなことは可能なのか。そんな自分を愛してくれる人を心から愛せるのか。
太宰治のように道化を演じて自滅するのか、鼠のように世界をさすらうのか、種田山頭火のように己の詩の世界の中で暮らすのか。色々な作家が物語だけではなく、自ら行動を起こすべくして死んでいきました。
そして、この課題は今でも残っています。古くて新しい問題でもあります。自分としては、この「ノルウェーの森」のキヅキと永沢さんの二人が、この問題を徹底的に考えるきっかけを与えてくれました。そして、今でもそのことはずっと考えています。だからこそ、しがない詩や小説を書き続けているのかもしれません。
この小説は結局のところ、人は誰ともわかり合えないという小説でもあります。わかろうとするがわかり合えない。
恋愛小説でありながら、実は誰の恋も実っていない(最後、主人公は緑という別の女性に惹かれる(必要とする)が、本当に愛しているのかは最後まで不明)。
このノルウェーの森という小説は、実は人は本当に心から愛し合えないという非恋愛小説かもしれないのです。事実、作中セックスシーンがふんだんでありながら、実はそこには心が伴っていません。
いったい、この弱さを抱えてどう生きるか、生き残るか。さらには「ボーイ一ミーツ・ガール」。「報われない愛」。これを美しい物語として描いてみせるのが村上春樹作品の真骨頂だと思っています。
その一つの完成形が「ノルウェーの森」だと思います。この本には、私が考えるべきものがすべてが書いてあります。これをチープな純愛ベストセラー小説だと思って読むと、大やけどしてしまいます。
ですから、村上ファンを含めて、まだ読んでない人や敬遠している人たちは、ぜひ一度読んでみてください。そして、可能なら永遠の伴侶にしてください。
村上春樹さんにとっての、「グレート・ギャッツビー」のように。
ではまた
並んで紹介するのが大変恐縮ですが。
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