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ぎりぎりの言葉

最近とても頭に残った言葉の一つとして、

「死なないためのルーティン」というのがあります。
それは、少し前にある不祥事を起こした俳優さんが、何かのインタビューの中で、サーフィンやスノボをかなり熱心にやられている理由を聞かれて答えたものでした。

この一言に目が留まりました。

私は、有名人に対しても、それにまつわるゴシップなどにまったく興味がなく、彼らが何をやろうが、どんな犯罪をしようが、文学的な関心があるだけで(それが少しやっかいだけど)、基本的にどうぞご自由にと、思っている質なので、彼が起こした騒動の中身については一切触れる気がありませんが、とにかくあの一言は、素晴らしいと思いました。

この言葉は、騒動のあとに、ぎりぎりに追い詰められた中、自分を見つめてきた結果から出てきた言葉なのでしょう。

「それこそ死なないために」。

それを、ありきたりではない、彼らしい言葉で言えるということは、やはりただ者じゃない、賢い方だなあと感心しました。

自分の意識が今どこにあり、どこに向かおうとしているのか、その方向は果たして正しいのか。それがわかっていないと出てこない言葉です。どこか詩人の香りがするのは私だけではないでしょう。

そして、この言葉は別にぎりぎりに追い詰められた彼にだけに限らず、多くの人にも当てはまる言葉でもあります。

皆が皆、「死にたくなるような思い」まで抱きながら生きているとは思いませんが、それなりに、日々大変な思いを抱えながら、その思いに負けないように、何とか思いをそらそうと、無意識に何かやっています。やろうとします。

その何かとは、趣味と言えば一番わかりがいいかもしれません。ギャンブルやお酒などのわかりやすいものから、その他として人によっては犯罪の範疇に入るものから、少し非道徳なものや、非倫理的なことまで含まれるでしょう。

「それをやれなかったら、死んじゃうよ」。
果たして非合法、非道徳なことまでして、死なないことを選ぶのか、だったら死んじゃうよとのたまって、果たしていざ本当に死ねるのか。

難しいところです。自分としては、「だったら、死んでもいいよ」ぐらいな気持ちは、少なからず待っていたいなあとは思っています。

人は、なかなか死ねません。困ったら野垂れ死ねばいいと言えてしまう人もいますが、そんなに簡単なものではないでしょう。

もし、そんな追い込まれて、死ぬか生きるかの選択に直面した場合。その活きるかが他人に多くの迷惑をかけることに繋がることをしか選択肢がないとしたら。

そういった人にいったい、どうした言葉が投げかけられるでしょうか。どんな言葉が思いつくのでしょうか。小説を書いていると、よく考えます。

「ぎりぎりの言葉」。
それを言える人は、とても賢いと同時に、どこか可哀想な人なのかもしれません。

“ 父の日に 亡くした父を 思い出し ”


夢はウォルト・ディズニーです。いつか仲村比呂ランドを作ります。 必ず・・たぶん・・おそらく・・奇跡が起きればですが。 最新刊は「救世主にはなれなくて」https://amzn.to/3JeaEOY English Site https://nakahi-works.com