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 文字的世界【16】

【16】読まれない文字を読むこと

 第14節で引用した「かなと精神分析」(矢口浩子・新宮一成)のなかに、「読まれないのに文字であり続けるという逆説的な文字の状態」という言葉が出てきました。
 文字が「読まれない」理由は、二つ考えられます。ひとつはそれが聴覚的現象と無縁であること、つまり音から「剥離」している(声に出して読めない)ことです。いまひとつは視覚的に見えないことで、これにはさらに二つの場合があります。そもそも視覚対象となる物的実体がない(見えない)か、あるいは物的対象ではある(見えてはいる)のに、それが「文字」としては読まれない[*1]、つまり意味から「剥離」しているかのどちらかです。
 くどいですが、この、音や意味から「剥離」した「読まれない」文字のことを、私は文字以前の〈文字〉、はじまりの〈文字〉として、すなわち“フィギュール”の概念において捉えたのでした。そして、「かなと精神分析」に続けて引用した「リチュラテール――ラカンの「日本」」のなかで、佐々木孝次氏が「文字は、象徴的なものの領域に参入しても、つねに意味から無意味に向かう運動を支えている」と書いていた、その「運動」こそ、象徴的な言語体系のうちに組み込まれた「文字」が、それでも遺伝的・潜在的に孕んでいる“フィギュール”の力の働きに依るものであると考えているのです[*2]。

 さて、文字をめぐる第一の仮説から第二の仮説──「文字の発明が時間や心の概念をもたらした」──をめぐる話題へ移行するに際して、まず、「読まれないのに文字であり続ける」ことの逆説(矢口浩子・新宮一成)、あるいは「読まれるべきもの」(=書かれた跡=自己同一的なもの)が意味に関らないこと(佐々木孝次)の実例の探索、というかその“理論”的な深掘りのために、(私にとって、パースと共に尽きせぬ刺激と発想の源泉である)ベンヤミンの言語論を援用したいと思います。その初期言語論について次回に、後期言語論については次々回で。

[*1]野矢茂樹氏が『言語哲学がはじまる』でフレーゲの『算術の基礎』第60節から次の文章を紹介している(43頁)。「語の内容が表象不可能であるからといって、それは、その語にいかなる意味も与えず、使用を禁じる理由にはならない。」
 野矢氏の引用(フレーゲの議論)はつづく。いわく、表象不可能な語、つまり心の中に対応するイメージが存在しない語が無内容に思えてしまうのは、語を孤立させてその意味を問い、表象を意味と取り違えるからだ。文が全体として意義をもつなら、それによって語(文の部分)も内容を得る。
 ──イメージや一般観念(ロック)のような「表象」をもたらさない文字は“読まれない”。しかし全体(星座、人生)が意義をもつなら、それによって部分(個々の星、日々の生活)も内容を得る。

[*2]「かなと精神分析」における「文字」は声と意味との連関が同じ重みをもって意識されているが、「リチュラテール――ラカンの「日本」」の「文字」は声よりも意味との連関が強調されている(あるいは意味との連関だけが問題にされている)。くどいが、ここでの私の関心は声より意味との連関における文字にある。
 声も文字もともに物的基盤をもっている。声について呪術性・魔術性を考えることができるように、文字もまた呪術性・魔術性を帯びている。しかし声と文字には微妙な、だが決定的な違いがある。声から「剥離」した文字は、出エジプトを果たして約束の地へ、つまり物質的・魔術的な地上の国から精神的・霊的な祝福の地へ向かう。ただし、この違いはあくまで相対的なものである。というのも、「乳と蜜の流れる地」も物的豊穣を表現する言葉だから。
 声は感覚的・物質的なもの、つまり呪術性・魔術性との親和性が強く、文字はより抽象的・精神的なもの、霊的・神秘的な次元との関係性が濃い。「象徴的なものの領域」により近いと言ってもいい。前節で引用した大嶋仁氏の言葉──「ベルクソンが事物と表象のあいだにイメージを置いてこれを重視したとすれば、レヴィ=ストロースはこのイメージの代わりに記号を置い」た──を借用するならば、声は「事物」の領域により近く、文字は「表象」の世界により接している。私の語彙で言えば、声は「マテリアル」な領域により近く、文字は「メタフィジカル」な領域により接している。
 たとえば、「聞く」に物的な次元(音響)と精神的な次元(啓示)があり、「読む」にも同様の区分があるが、「読む」ことの抽象性・精神性の拡がり(星座を読む、運命を読む、未来を読む、人の心(顔色)を読む、歌を詠む、等々)は「聞く」より大きい。ただ、この違いもあくまで印象的・相対的なものである。

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