見出し画像

ペルソナ的世界【6】

【6】“これ”と“あれ”の通底─クオリアとペルソナ・又

 クオリアとペルソナの「関係」をめぐって、入不二基義著『問いを問う──哲学入門講義』第3章「どのようにして私たちは他者の心を知るのか?」から、関連する個所を摘出します。

1.運動としてのクオリア

〇味覚の例で言えば、意味・概念の水準とは区別された、直接経験の水準での「味わい」が、味のクオリアである。「甘さ」と名指されている味が、自分にどのように直接感じられているか、その質感を「クオリア」と呼ぶ。(112頁)
 意味・概念(関係性)の水準における心は「表層の心」(ふるまい即心=喜怒哀楽という基本感情)と「中層の心」(意味・概念のネットワーク=憂い・不安・恐れなど複雑・微妙な感情の関係性)とからなり、直接経験の水準における心が「深層の心」(クオリア≠深層心理・無意識)である。(133-134頁,153-154頁)

〇クオリアの特殊性・独自性に対する擁護側と批判側は、クオリアを「確定されている何か」と考えている点で一致している。

《しかし、私はそう考えていない。クオリアは、心の表層から中層を突破して、深層にまで潜っていく、【質的な経験の逸脱運動】であると考えた。どこかの深度で、とりあえず確定(固定)されることはあるとしても、その確定(固定)からもさらに【逸脱する力が潜在している】からこそ、クオリアはクオリアであり続ける。【潜在的なクオリア】も、クオリアである。
 もちろん、【運動としてのクオリア】には、潜っていく逸脱運動だけではなく、深部から浮かび上がって確定(固定)されようとする方向性[包摂]の運動も含まれている。いわば、【心の表層⇄中層⇄深層の往復運動】こそが、クオリアという現象に他ならない。》(『問いを問う』139頁、【 】は原文ではゴシック)

〇私と他者のクオリアは同一なのか、類似しているのか、あるいは逆転しているのか、そもそも無いのかという問いは、クオリアを「確定されている何か(無という確定も含む)」として考えている点で逆立ちしている。
 話は逆で、そのような問いの反復(同一性→類似性→逆転→…→不在)が終わらないこと自体が、すなわち直接性の局面でも関係性の局面でも完結せず、両者の包摂‐逸脱関係が繰り返される、その全体がクオリア現象なのである。(140頁)

2,コギトとクオリアの関係─対照と通底

〇これと同じ事態を「コギトと他性」の問題──「他者の心の他性が、まさにその疑いの遂行において構成される」、あるいは「他者の心について疑う(問う)のではなく、疑う(問う)こと自体が、他者の心の他性を生み出す」──に見ることができる。

《コギトと他性は、あたかも一つの楕円(疑い)を構成する二つの焦点のようであり、コギトは今の疑いのこの【一回性】に対応し、他性は終わらない疑いの【反復可能性】に対応する。さらに、楕円の極限形態としての円を表象するならば、コギトと他性、あるいは疑いの【一回性と反復可能性】は、一つの点(中心)へと潰れる。コギトは疑い(思い)の遂行・生起それ自体であり、その中身・内容とは無関係にそれ自体として働く。中身・内容との無関係性ゆえに、コギトは「空っぽ」である。》(『問いを問う』141頁)

〇心の深層を降っていくと、どのような概念にも収まらない質感や、新たな概念化を待つ(まだ感じられていない)潜在的なクオリアが存在する。一方、コギトは認識即存在であり「厚み」のない「点」的な存在であった。(164頁)

《コギトが認識即存在であることは、次のことを意味する。‘何を’想い、‘何を’疑うのかの「何(認識内容)」はまったく関与することなく、‘何であれ’思っていれば・‘何であれ’疑っていれば、(認識内容とは無関係に)その思い・疑い自体が存在する。コギトが「点」的であるとは、コギトが無内包な認識生起それ自体であることを表す。
 それに対して、クオリアには「深さ」があって、「点」には留まっていられない。「‘何を’・‘どのように’感じるか」(質感の内容)は、クオリアがクオリアであることに欠かせない。しかし、認識内容に無関与であるコギトと、認識内容に深く関与するクオリアという対照だけでは済まない。》(『問いを問う』165頁、‘ ’は原文では傍点)

〇コギトは「何であれ思う・疑う・思考する」の「何」に関しては無関与であっても、「思い」「疑い」「思考」であることにはコミットせざるを得ない。また、コギトはその反復によって、自らの認識即存在を自己産出する仕組みになっている。つまり、コギトは純粋で完全な「点」に留まること──その反復が不可能な「ただ一回きり」の思い・疑い・思考の生起であること──ができない。

《コギトとクオリアは、まずは「点的な認識即存在の現実」としてのコギトと、「深さにおける認識と存在の乖離の可能性」としてのクオリアのように、互いに対照的である。しかし、疑いの反復(繰り返し)運動のところでは、互いに通底する。コギトにおいては、疑いの反復運動が自己産出になるし、クオリアにおいては、疑いの反復運動が意味(概念)からの逸脱運動に繋がる。両者に共通の「底」では、「疑い」のあるいは「逸脱」の反復(繰り返し)運動が働いている。
 そのうえで、コギトは、その反復運動が不可能になる「唯一回性=点」としての「‘これ’」を指し示そうとするが、クオリアは、その反復運動の果ての「潜在的な質」としての「‘あれ’」に逢着しようとする。「‘これ’」も「‘あれ’」も、どちらも意味(概念)のネットワークに組み込むことが不可能な外部であるけれども、「‘これ’」は意味(概念)がゼロの地点であり、「‘あれ’」は、意味(概念)がそこから無限に発しうる無尽蔵の地点である。》(『問いを問う』166-1677頁)

 ──私は、入不二氏が論じている「コギトとクオリア」の関係を「ペルソナとクオリア」のそれに重ね描きし、もしくはその下絵として据えることによって、これら二つの対照的な概念が通底する見えない回路、あるいはそのロジックを炙り出すことができないかと考えています。
 それは、たとえば「意味・概念のネットワーク:認識内容にかかわるリアリティの水平軸」(表層・中層・深層とこれを反転させた下空・中空・上空)と「意味・概念がゼロの地点:認識即存在の現実性にかかわるアクチュアリティの垂直軸」(深さと高さ、無限と無)とで合成される図の“向こう側”あるいは“こちら側”に棲息しているのだと思います[*]。

     [メタフィジカルな界域]

    認識即存在の現実性:無・空っぽ
        <無内包>
      【ペルソナ(コギト)】
       <第〇次内包>
    ━━━━━━╋━━━━━━ 上空
          ┃
    ───<第一次内包>─── 中空
          ┃
 表層 ━━━<第二次内包>━━━ 下空
          ┃
 中層 ───<第一次内包>───
          ┃
 深層 ━━━━━━╋━━━━━━
       <第〇次内包>
        【クオリア】
     潜在的な質・無尽蔵の地点:無限
       <マイナス内包>

      [マテリアルな界域]

[*]図に書き込んだ「第〇~二次内包」「マイナス内包」「無内包」の概念について、「哥とクオリア/ペルソナと哥」第62章第5節から、関連する個所を自己引用する。

 ……無内包の現実性──「それが何であるかは決してわからないどころか、いやむしろ、それは何であるか[=リアリティ(実在性)]がない」純粋なアクチュアリティ(現実性)。この概念は、二次にわたる「永井(均)-入不二(基義)論争」(私の勝手な命名)を通じて精錬されてきたもので、その経緯をざっと一瞥すると、以下のようになります。

《第一次・永井-入不二論争》

○永井が『なぜ意識は実在しないのか』(2007年11月)でクリプキ-チャーマーズの二次元的意味論を踏まえ「第〇次内包」の概念を導入。
○入不二が「〈私〉とクオリア──マイナス内包・無内包・もう一つのゾンビ」(共著『〈私〉の哲学 を哲学する』所収、2010年10月)で、永井の「第〇次内包」の概念には「私秘性」(感覚の認知の自立)と「独在性・現実性」の二つの場面が同居していると批判。これを、①「(当初の意味での)第〇次内包」=クオリア、②「マイナス内包」=潜在的なクオリア(特定の概念[例:痛み]から自立・逸脱した不明瞭な「何らかの感じ」)、③「無内包」=〈私〉や〈今〉、の三つに腑分けした。
○永井が入不二の指摘を一部(無内包に関する部分)受け入れ、『改訂版 なぜ意識は実在しないのか』(2016年6月)を刊行。「[「私」の私秘性を作り出す]基になっているのはもちろん独在性であり、独在する私です。…これはもはや第〇次内包ではなく、無内包の現実性です」(170頁)。

 ──第一次論争を通じて明らかになった「三次元的」意味論の概要は次のとおり。(私的言語とは「無内包の現実性」を語る言語、いわば「無内包言語」であって、「第一次内包言語」(=パブリック言語)と関連づけられていない「第〇次内包言語」(永井前掲書改訂版131-132頁)のことではない。)

【無内包】
・独在的な〈私〉や〈今〉(=純粋経験)

【第〇次内包】
・私秘的な意識=クオリア/内的体験/「文脈独立的・内面孤立的な内包」(入不二前掲論文)
・「[第一次内包に対する]第一の逆襲[=感覚の認知の自立]をへて、何も酸っぱいものを食べていなくても、なぜだか酸っぱく感じられることが可能になった段階の酸っぱさの感覚そのもの」(永井前掲書改訂版12頁)
・「《つめたいもの》や《しめり》として現象する神(テオス)」(ロレンス『黙示録論』)

【第一次内包】
・公的言語において認知された「感じ」/外的文脈(ふるまい・表情)/「日常文脈的な内包」(入不二前掲論文)
・「酸っぱさの例でいえば、梅干しや夏みかんを食べたときに酸っぱそうな顔をするとき感じている‘とされるもの’」(永井前掲書改訂版12頁)
・「海や湖の透明度が高くて飲める液体、水らしきもの」(チャーマーズ『意識する心』)

【第二次内包】
・物理的な状態・事実/「科学探究的な内包」(入不二前掲論文)
・「[第一次内包に対する]第二の逆襲[=物理的状態の側からの逆襲、脳科学的・神経生理学的な探究]」によって判明する酸っぱさの本体、脳内のミクロな物理的状態(永井前掲書改訂版)
・「水はH2Oである」(チャーマーズ前掲書)……

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?