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韻律的世界【5】

【5】萩原朔太郎─詩と韻律とは同字義である

 本編に入り、さて何から手を着けようかと思案していたちょうどその時、『恋愛名歌集』の岩波文庫版が刊行されたので、これを機縁として、萩原朔太郎の韻律論の‘摘まみ読み’から作業を開始することにします。
 「序言」に、いきなり根本命題が出てきます。

《一つの本能的な事実として、詩は韻律と共に発生し、かつ韻律を求めて表現する。詩の概念定義は如何にもあれ、それが人を陶酔させる実の力は、主としてその文学に特有して居る、言語の魔力的な抑揚や節奏──それが広義の韻律である──に係って居る。この音楽から来る不思議の酔[よい]が、それ自ら「詩」と呼ばれる不思議の感情である故に、詩と韻律とは同字義であり、広義の韻文であることなしに、詩である文学は無いわけである。》(8-9頁)

 しかるに、と議論は続きます。今日の日本においては、歌以外に真の韻文が無い。歌のみが唯一の現存する詩形である。「真の韻律的なる詩的陶酔」を欲するなら、伝統の和歌を読む外はないと[*1・2]。

《…日本語には建築的、対比的の機械韻律がほとんどなく、その点外国語に比して甚だ貧弱であるけれども、一種特別なる柔軟自在の韻律があり、母音、子音の不規則な──と言うよりも非機械的な配列から、頭韻や脚韻やの自由押韻を構成して、特殊な美しい音律を調べるのである。この点において歌は最上の発達を遂げてるので、特にその代表的な作について例解し、韻律を分類して押韻図式を示して置いた。》(14頁)

 こうして萩原朔太郎は、万葉から古今を経て新古今に至る歌集から、秀歌、名歌、名吟、秀逸、絶唱、圧巻を選抄し、若干の評釈を加え、本書を著したわけです。

[*1]萩原朔太郎の韻律論をめぐって、渡部泰明氏は文庫解説で次のように書いている。

《和歌の韻律、すなわち声に出した時の言葉の固有のはたらきの大事さを訴えた書として、私たちはすでに八百年以上前に、藤原俊成の『古来風体抄』を持っている。風体(姿)とは、心と詞の調和したさま、すなわち抒情が言葉において実現している様態を指し、韻律にほど近い概念である。》(251頁)

 それ以外にも、万葉集や八代集からの和歌の選抄であることや、独特の視点から和歌史を記述していること、何より本来の抒情性の再生による詩の刷新への意志を同じくすることから、渡部氏は本書『恋愛名歌集』を「昭和の『古来風体抄』」と呼んでいる。
 俊成は『古来風体抄』に「歌はたゞよみあげもし、詠じもしたるに、何となく艶にもあはれにも聞ゆることのあるなるべし。もとより詠歌といひて、声につきてよくもあしくも聞ゆるものなり」と書いた。
 俊成が言う「声」と「韻律」、「風体(姿)」そして「詞(文字)」との関係は微妙だ。それは、萩原朔太郎が言う「調」(音調・音象、音楽)と「想」(修辞、内容)の関係(166頁)に通じている。
 なお俊成の「声」については、渡部氏の論考「歌合の〈声〉──読み上げ、詠じもしたる」(『聖なる声 和歌にひそむ力』所収)参照。

[*2]哲学的韻律というものもある。内田樹著『レヴィナスの時間論』に次のように書かれているのは、武道と能の身体運用に通じた内田氏が体験したその典型だと思う。

《彼の哲学史最大の功績の一つはその独特な修辞術にあると私は思っている。ある哲学者はレヴィナスの文体を「繰り返し押し寄せる波のような律動」に比した。私もそれに同意する。レヴィナスの文体は寄せては返す波のようなリズムを刻む。同じような波形が何度か続く。不意に波が途絶えて、やがて遠く海嘯が轟き、異形の大波が頭上から崩れ墜ちて私たちを呑み込む。絶息しかけて必死で浮かび上がって肺一杯に息を吸い、しばし波間に漂って息を整えていると、なじみのある波形が戻っている。それが何度か続くと、また波が途絶え……そういうことが繰り返される。
 それがレヴィナスを読む時に私が感じる‘身体的な印象’である。(略)
 寄せては返すようなレヴィナスの無窮律動的な文体は、決して文学的な感興に導かれて選ばれたものではない(詩的法悦と神秘的霊感をレヴィナスはほとんど病的に嫌った)。あれは私たちに何かを理解させるためではなく、‘私たちに何かをさせる’ために精密に計算され、設計された装置なのだと思う。重要なのは、テクストの叡智的な内容ではなく、テクストそのものが読者を造形し、読者を扶養するその力動的な過程なのだ。》(『レヴィナスの時間論』105-106頁)

 宗教的韻律というものもあるだろう。『コーラン』(岩波文庫)の解説で井筒俊彦は次のように書いている。いわく、古代アラビアの砂漠に「カーヒン」と呼ばれる預言者か巫者のごときシャーマン的人間がいて、突然精霊的な力にとり抑えられ「何者か」の言葉を語り出す。

《古代アラビアのカーヒンが、このような神憑りの状態に入ってものを語り出す時、それは必ず一種独特の発想形態を取るのを常とした。この文体をサジュウという。「サジュウ」体とは、ごく大ざっぱに言って見れば、まず散文と詩の中間のようなもので、長短さまざまの句を一定の詩的律動なしに、次々にたたみかけるように積み重ね、句末の韻だけで‘きりっ’としめくくって行く実に珍らしい発想技術である。これがまた、凛冽たる響きに満ちたアラビア語という言葉にぴったりと合うのだ。著しく調べの高い語句の大小が打ち寄せる大波小波のようにたたみかけ、それを繰り返し繰り返し同じ響きの脚韻で区切って行くと、言葉の流れには異常な緊張が漲って、これはもう言葉そのものが一種の陶酔である。語る人も聴く人も、共に怪しい恍惚状態にひきずり込まれるのだ。》(『コーラン(上)』362頁)

 島村一平著『憑依と抵抗』から。「…モンゴルのシャーマンたちにとっての「憑霊」とは、韻を踏み続けることによって、意識外の言語≒精霊の言葉を新たに生み出す営為を指すのではないか…。こうした押韻がもたらす、あたかも憑依のように無意識に自動的に発話する性質をここでは「韻の憑依性」と呼んでおこう。」(273-274頁)

 詩的韻律、哲学的韻律、宗教的韻律はすべて同じ基盤を持っている。

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