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仮面的世界【35】

【35】仮面の記号論(結)─ペルソナ的・文字的世界へ

 多くの‘宿題’を積み残したまま、四回目の仮面考の考察を終えます。とりわけ心残りなのは、今回もまた、和辻哲郎と坂部恵に到達できなかったことですが、しかし、これはなかば確信犯、というか最初からそうなることを予想していたものでした。
 今回の主要関心事は「仮面の記号論」の考察でした。その固有の議論は、マスク(狭義の仮面記号)やオクシモロンを取りあげたところで実質的に終わっていて、アレゴリー論やアイロニー論といった領域に踏み込んだのは、韻律、仮面の次に来るものを炙り出しておきたかったからです。
 それは、つまり(狭義の)仮面世界の次に来るものとは、劇場=洞窟=仮面の世界から出現する「ペルソナ=文字」にほかなりません。(「ペルソナ」や「文字」も、私の考えでは伝導体=広義の仮面記号にほかならないので、「ペルソナ=文字=仮面」と表記してもいい。)
 ペルソナ=文字とは何か。このことを主題的に考察するためにこそ、長らく手つかずのままにしていた和辻=坂部の仕事に挑まなければなりません。いまの時点で朧気に言えることは、次のようなものです。──文字とは、言葉では十全に表現できないもの、たとえばクオリアやペルソナのごときものを、表現し伝達しあるいは生産し伝導する媒質である。

     ※
 「仮面的世界」を閉じる前に、本編に組み込めなかった落穂拾いを一つ。
 山城祥二編『仮面考 シンポジウム』(リブロポート:1982年)の第三部「憑依(トランス)の構造」は、小田晋、観世栄夫、栗本愼一郎、森本公誠、山城祥二をパネリストに迎え、坂部恵の司会によって進行された‘豪華’な饗宴の記録です。(本書に収められた他の三つのシンポジウムも、河合隼男、小泉文夫、中村雄二郎、といった面々による‘絢爛’な知的饗宴の記録で、これに山口昌男や丸山圭三郎、市川浩、武満徹といった識者が加わると、ある時代の匂いが濃厚に漂う。)
 仮面体験をめぐる「トランス」=「依る」と「ポゼッション」=「憑く」、「エクスタシー」(脱自)という三つの要素(これに「エントゥシアスモス」(神充)」を加えると四つの要素になる)、離見の見との関係、等々、刺激的な議論がいくつも出てくるのですが、ここでは坂部恵の一続きの発言を二つに分けて引用します。

《さて、すでに多くの方が、憑依にしても仮面にしても、それが自我の二重化という事態に関わることを指摘されました。私が、ここではっきりさせておきたいのは、そうした二重化の経験ということは決して特殊なことではなくて、むしろ、人間の経験の普遍的な基層と《ママ》をなすのではないかということ、言い換えれば、われわれ自身、必ずしも文明社会に生きている場合には意識してないけれども、むしろわれわれの人格に、二重化の構造というものがつきまとっているというのが、最も基本的な事態なんではないかということです。
 これは、いろいろな角度から言うことができます。たとえば、ほかの動物と違って、人間だけが時間を知っているということが言われる。それは、つまり、人間の自我がその都度の現在だけに縛られて生きるのではなくて、同時に、いわば未来にも過去にも自分を移し入れながら生きている、言い換えれば、脱自的な構造をもっているということにほかなりません。この観点からすると、私は、太古の人類がすでに墓をつくって祖先を追悼する、喪に服するということを知っていたということと同じく、すでに旧石器時代から仮面が見られるという事実には密接な関連があることのように思います。言ってみれば、両者は、時間の向きを異にするだけで──過去の死者の生前その人と過ごした時間に自分を移し入れるか、それとも逆に過去の、祖先の霊がわれわれの現在に立ち返ってくるか──ひとつの同じ二重構造の表われだと考えられるからです。ほかならぬ憑依の体験もまた、同じ二重構造の別なヴァリエーションにほかならないことは、言うまでもないでしょう。
 あるいはまた、人間だけが高度に発達した言語というものをもってることも同じ事態の別な表われと見られないか。つまり言葉は分離して区別する。そして区別しながら、同時にまた、それをひとまとまりに統一して考えるという、いわば二重化された総合の構造…をもっていると言うことができそうに思います。》(『仮面考 シンポジウム』178-179頁)

 「人間の経験の普遍的な基層」とは、坂部自身が言うように、「太古の人類」の経験すなわち旧石器時代の洞窟体験に通じています(仮面の体験、すなわち憑依の体験と言語の体験、すなわち‘表意’の体験)。

《さて、ここで問題になるのは、このようないわば人間の自我の基層にある二重化の構造が、文明社会…では、ともすれば見落とされ、あるいは二次的ないし病的な一段価値の低いものと見なされがちなことの意味です。
 詳しい話は抜きにして、結論だけを言えば、私は、文明人の自己同一的な自我と言われるものの基層にもやはり同じ二重構造は生きつづけている、しかも、その基層に生きている基礎的な体験に絶えずくり返し立ち戻って、いわばそこからエネルギーを汲み取ることなしには、それは、硬直化することを免れないということを、今日では平凡なことながら、改めて強調しておきたいと思います。憑依や仮面が今日の私たちにとってもちうる意味という問題も、言うまでもなく、このこととの関連において問われるべきものでしょう。
 最後に憑依についてひと言、憑依──依[よ]り憑[つ]くということですが──これは二つに分けて考えられるのではないか、つまりポゼッション[憑く]とトランス[依り]。「憑く」のほうから言えば、ヨーロッパの場合でも、ポゼッションというのは、伝統的に「悪魔憑き」で、悪い意味で使われる…ことが多い。
 ところが、「依る」のほうは、ある時期からはかなり影が薄くなってしまうようですけれども、どちらかというとポジティブに評価される。「依る」のほうはコントロールされた憑依。「憑き」のほうは、逆にそれに取り憑かれてしまうという形で、コントロールされていない憑依と言ってもよいかもしれない。ともかくそういうそういったよい憑依と悪い憑依が伝統的に区別されてきた。ときにその区別は、憑きもの同士の闘い、シャーマンの術比べなどという形で決せられることもあった。》(『仮面考 シンポジウム』179頁)

 ──文字がもつ呪術性にもまた「依り」と「憑く」の二重性がある。文(字)は人(ペルソナ)なり。

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