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仮面的世界【13】

【13】予備的考察(補遺ノ壱)─鏡の構造と反転・反映の戯れ

 前回触れた坂部恵の「日本文化における仮面と影──日本の思考の潜在的存在論」(『鏡のなかの日本語』)からの引用を二つ。
 この論考において坂部は、日本語の目立つ特徴のひとつとして、「元来の日本語(やまとことば)においては、仮面と素顔を言い表すのに、ただひとつの語すなわち、〈おもて〉という語をもってする」ことを挙げ(41頁)、また、「おもて」に関していまひとつ注目に値することとして、それが「面(おもて)」、「仮面」、「顔面」を意味するにとどまらず、「表(おもて)」、「表面」という意味をもあわせもつことに注目している(46頁)。

 前段について。「まな-ざし」という語が一方向的な志向性以上のものを含まないのに対して、「おも-ざし」(顔貌、顔付き、顔の志向)は「双方向的に交錯する重層的な志向性」を含んでいると分析した上で、坂部は、「おもて」もこれとおなじ構造をもつこと、すなわち「他者によって見られるものであると同時に、また、みずから見るものであり、さらには、おそらく、みずからを一個の他者として見るもの」にほかならないことを指摘し、能舞台におけるある仕掛けに言及している。

《〈鏡の間〉において、演者は、面を身に着け、鏡のなかにみずからの顔ないし面を見、同時に鏡のなかの面によって見られ、さらには、みずからを神ないし霊に変身を遂げたものとして見ます。つづいて、かれは、神ないし霊に変身を遂げた演者として、あるいは、つまりはおなじことですが、演者たるみずからの身のうちに化身した神ないし霊として、舞台へと歩み出るのです。
 おなじことを、かれは、他者に変身を遂げた自己として、あるいは、自己のうちに化身した他者として、舞台へと歩み出る、といいかえてもよいでしょう。
 ここには、このようにして、いましがたわれわれが規定した〈おもて〉の構造の典型的なひとつの顕現ないし顕在化が見られます。》(『鏡のなかの日本語』44-45頁)

 坂部は続けて、このような「おもて」の構造は「仮面」の構造であると同時に「素顔」の構造でもあることを指摘し、ローマ時代の「仮面」からキリスト教神学における神の「位格」を経て近代の個的で自律的な「人格」にいたる変遷を経たラテン語の「ペルソナ」と比較している。

 後段について。いわく、日本語の思考における「表面」はイデアや物自体といった実体的な実在に対立する「見かけ」を意味するものではない。すなわち「おも-て」と「うら-て」は原理的に反転可能ないし可逆的・相互的である。
 ここでは、「離見の見」と「幽玄」の概念が、可視性(おも-て)と不可視性(うら-て)の反転可能性ないし可逆性の例として挙げられる。

《いずれにせよ、日本の伝統的な思考においては、デカルト的な実体のカテゴリーも、あるいは、精神と身体、内と外、見えるものと見えないもの等々のあいだの、ある種の堅固に固定されて動きの取れない二元論も存在しないのです。(略)
 要するに、くりかえし言えば、日本の伝統的思考においては、〈おもて〉、〈表[おもて]〉、〈表面〉しか存在しない。いいかえれば、すくなくとも原則的にいって、厳密にたがいに反転可能なもろもろの〈おもて〉の束しか存在しないのです。
 われわれがさきに見たように、(〈鏡の間〉をふくめた)能の舞台は、象徴的にも現実的にも、幾重にも、鏡の構造にとり囲まれており、そこには、(いうまでもなく、〈謡い〉や〈地謡い〉をもふくめて)いわば、さまざまな〈おもて〉〈表面〉と反映の戯れを措いてほかの何物もありません。もしお望みとあれば、そこには、みずからのうちにさまざまな成層ないし次元をふくんだ、一種の〈エクリチュール〉ないし〈テクスト〉があると言うこともできるでしょう。ということになれば、そこには、〈音声中心主義[フォノサントリスム]〉のいかなる痕跡もないということになるでしょう。
 そこには、いかなる厳密に固定された同一性をももつことのない、同一性と差異性の戯れをおいて何物もありません。(一人称、二人称、三人称といった)〈人称〉ないし〈人格〉さえも、そこでは、厳密に固定されることがないのです……。
 能の舞台においては、死者たちの世界ないし〈幽界〉とわれわれの地上の世界、あるいは、見えないものと見えるものさえもが、ついには、たがいに反転可能な可逆性と相互性の関係のうちに置かれるのです。》(『鏡のなかの日本語』49-50頁)

 ──本論に直接関係しない話題になるが、「おもて」という語をめぐる坂部恵の議論は、より広く「やまとことば」一般がもつ特性に拡張できると思う。すなわち、①相反する意味をもつ語、「コントロニム」(contronym;Janus-faced word とも)と、②可視性(おもて)と不可視性(うら)の反転可能性・可逆性。
 そうだとすると、それは、私がかねてから考想してきた「やまとことば=ネオテニー説」にとって大きなヒントになるだろう。(あるいは「やまとことば=鏡=仮面説」を呈示することによって、再び本論に引き戻すことができるのかもしれない。)

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