韻律的世界【23】
【23】リズムからモアレへ─アフォーダンスと指示表出
山崎正和著『リズムの哲学ノート』は、「根源的に切れ目を内在した流動」(38頁)としてリズムを捉え、この遍在する現象を「森羅万象の根源」に置かれるべきもの、あるいは「万物を載せて運ぶ運命そのもの」と見ています。
《リズムは不思議な現象であって、力の流動とそれを断ち切る拍子とが共存して、しかも流動は拍子によって力を撓められ、逆にその推進力を強くするという性質を持っている。これはあの「鹿おどし」の構造にも擬えられるものだが、このリズムの構造を諸現実の根底に据えることによって、私は長く哲学を苦しめてきた病弊と闘えると予想してきた。
その病弊とは古代以来、[形相と質料、主観と客観、意識と外界、精神と物質、といったように──引用者註]かたちを変えては連綿と続いてきた、いわば「一元論的二項対立」と呼ぶべきものである。》(『リズムの哲学ノート』「あとがき」252頁)
この書物は、リズム篇の基軸とすべき文献なのですが、しかしその内容が広範に及び、かつ深すぎるので、というよりこれを咀嚼する力と余裕がいまの私の側になかったので、ここでは、本書刊行後の「哲学漫想3 リズムの哲学再考──反省と展開への期待」(『哲学漫想』所収)の議論を援用し、ライム篇への‘つなぎ’にしたいと思います。
1.山崎氏は、身体を「リズムの働いているときにのみ成立し、リズムが停止すれば消滅するもの」(66頁)と定義し、その空間的・時間的な輪郭が不明確であり、その中心も見当たらないことを指摘する。
「…複数のリズムの輻湊体にすぎない身体に中心はありえない。まずリズムを乗せる媒体としての肉体を見れば明白だが、肉体の局所はどこをとっても全体の中心にはなりえない。(略)
内発的に生まれたリズムが肉体に乗り、そこに何らかの全体性をつくりうるのは、むしろそれが肉体の限られた局所に乗った場合だけである。ときによってリズムは聴覚に乗って音楽を生み、視覚に乗って美術を生み、運動能力に乗って舞踊や演劇を生むが、そこでは身体に何らかの人工的な抽象化が施されている。音楽作品は外郭を持ち、序破急に喩えられる完結性を帯びるが、それはあくまでも全身が聴覚を中心として再編成され、一時的にリズムの輻湊が局限された結果にほかならない。」(72頁)
2.そのうえで、「身体はリズムの単位として発生するものの、そのまま存続することはない」(73頁)と考えるべきではないかと問う。
「じっさい現実世界の実態を見ると、身体の現象は別の意味でも不確実で、ほとんど儚いといいたくなる窮状を示すからである。というのは、身体はかりにここにある事物として現象するとしても、現れるが早いか、ただちに事物ならぬ観念へと変質する傾向を帯びている。身体を見る側からいえば、姿態や表情のさまをつぶさに捉える代わりに、目をそらしてそれらに名前をつけ、その名前のほうを凝視するという弊風である。」(73頁)
3.ある事物(たとえば愛玩する猫)が持つ「変わらないもの」(独特の柔らかい毛、愛らしさ)は直接に知覚される対象であり、分析や抽象化、概念化の対象となる「類的な事物」の「類性」とは無縁である。こういう「変わらないもの」を知覚の原点に据えたのが、「アフォーダンス」の概念を呈示したJ・J・ギブソン(『生態学的知覚論』)の功績だった(91頁)。
4.山崎氏はギブソンの先進性に敬意を払いつつ、「私としては「類的な個物」の孕む緊張、観念と事物の対立の考え方に固執したい」(91頁)と言う。ここで山崎氏が注目するのが「類型(type)」である。
「…丸顔、面長といった全体の類型、鉤鼻、頬髯、二重瞼など部分の類型が「変わらないもの」の端緒を形成する。類型は類的な個物の濃縮版ともいうべき現象であって、一面では概念化されているが、鉤鼻、頬髯などの事物性を十分に含んでいる。人はここから類型の事象性の拡大に努めるのであって、「鉤鼻がめだつ面長の髭面」といったぐあいに記憶像を充足してゆく。」(92-93頁)
5.山崎氏は「変わらないもの(invariants)」を一括して別の名で呼ぶとしたどんな命名がありうるのかと問い、「印象」や「相貌的」(ウェルナー)といった術語を挙げた上で、次のように述べる。「私としてはそういう表現を総括する代名詞として、さしあたり「詩的」という命名がふさわしいかと考えている。」(99頁)
6.最後に、アフォーダンスとリズムの哲学の関係をめぐって、山崎氏は次のように言う。「アフォードするものとされるもののあいだには、ひょっとすると同じ一つの力動的な関係、ほかならぬリズムの力が広く働いているかもしれない」(99頁)。
「少なくとも飛び石の配置はそれ自体の内部に運動を秘めていて、人間の習慣としての歩幅、前進する弾みの勢いをかたちのなかに含んでいる。それを踏んで歩く運動と、そうするようにアフォードする石塊のかたちは、もともと同じリズムを生み出していたと考えられるのではないだろうか。
この事例を敷衍して、ギブソンのいういっさいの環境、大地や水や包囲光のすべてがその内部に潜在的なリズムを含み、生命体の生きるリズムと照応しているかどうか。いいかえればアフォード現象はリズムの現象に包摂されるかどうか。これはリズムの哲学の展開にとては魅惑的な主題だが、その本格的な解明にはいずれ稿を新たにしなければなるまい。」(99-100頁)
次回へ続く。
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