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【紀行文】輿休山勅養寺:御輿を止めて「勅使」が休養した寺(愛知県新城市)

 JR飯田線の東新町ひがししんまち駅から北東に向かった地、愛知県新城市は矢部字矢畑に、輿休山よきゅうざん勅養寺ちょくようじという曹洞宗の寺院がある。

 仏教で「勅」というと、最初に思い浮かべるのはみ仏のご命令を意味する「仏勅」という言葉だが、この寺の名はそれに由来するものではない。寺号標、看板、屋根瓦――。当寺の境内では、さまざまなところで菊花の紋章がみられる。

 菊花紋章といえば皇室の御紋章であるから「勅願寺」を連想するが、朝廷から指定を受けたという話も聞かない。ならばこの寺の「勅」とはいったい何に由来するものなのかというと、古くからの伝説に由来しているらしい。

 今からおよそ一三〇〇年前の大宝年間のことだ。人皇第四二代・文武天皇におかせられては、鳳来寺の開山である利修仙人に病気平癒の祈祷をさせるために、公卿の草鹿砥くさかど公宣きんのぶを勅使として奥三河にお遣わしになったという。

 ところが、川が氾濫していて渡ることができなかったので、公宣卿の一行はしばらくの間「中福寺」という寺に留まることにした。この時、どうしたわけか猿が集まり橋を架けてくれたので、勅使一行は川を渡ることができたそうだ(寒狭川の「猿橋」)。

矢部村勅養寺、禅、勅使公宣、瀧川満水にて渡事あたはず、此寺に滞留に依て、寺号とすと云、此時猿集て橋をかけ勅使を渡す、今渡猿橋あり

『近世文芸叢書 第二』(国書刊行会、明治四十三年)四七六頁。

  中福寺はこの後、御輿に乗った勅使を休養させた寺として寺号を「輿休山勅養寺」と改めさせられ、さらに十六弁の菊花紋章を用いることを許された――という話である。

 なお、勅養寺は元はもっと山間部にあったという。また、かつては公宣卿から贈られたという硯があったとされるが、今には伝わっていないそうだ。

 当寺の屋根瓦には、寺紋である菊花紋章だけではなく、「勅」の字が書いてあるものも多い。

 皇室ゆかりといわれる寺院の瓦ならば、菊の御紋の意匠は珍しくもない。だが、おそらく「勅」の瓦というのはそう多くの寺でみられるものではないだろう。

 正直なところ、「輿休山勅養寺」という寺の名称、そして屋根瓦の他にはこれといって伝説を感じさせてくれるものはない。伝説の探訪だけを目的に参詣するとがっかりしてしまうことだろう。

 しかし、東新町駅からこの勅養寺の間には、織田信長や北畠信雄の本陣跡など、かの長篠・設楽ヶ原の戦いの史跡が点在している(猿が架けたという先述の橋は、言い伝えによれば武田勝頼も退却時に渡ったという)。それらと併せる形で当寺にも足を運んでみるといいかもしれない。


【参考文献】
久曽神昇、近藤恒次『宝飯地方史資料 七 近世三河地方文献集』(愛知県宝飯地方史編纂委員会、一九五九年)
山本一三二『新城の伝説 新城市郷土叢書第二集』(新城市郷土研究会、一九五九年)
近藤恒次『宝飯地方史資料 一三 三河文献集成 近世編 上』(愛知県宝飯地方史編纂委員会、一九六三年)

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