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愛知県の皇室伝承

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・壬申の乱の敗者、弘文天皇の生存伝説(岡崎市) ・文武天皇が「三河行幸」中に儲けた皇子「竹内王子」(豊橋市) ・なぜか渥美半島に渡った後小松天皇の皇女「松代姫」(田原市) ・うつ…
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#郷土史

【愛知県の皇室伝承】10.順徳天皇の皇女「利慶徳善大比丘尼」下向伝説(岡崎市)

築山稲荷大明神・瑞生山総持寺  愛知県岡崎市中町に、瑞生山総持寺という曹洞宗の寺院がある。明治時代初期までは男子禁制の尼寺で「総持尼寺」と称していた。  あくまで伝説の域を出るものではないが、この寺の創建には、皇室が深く関わっていると伝えられている――。  人皇第八四代・順徳天皇(※林自見正森『三河刪補松』によれば第五三代・淳和天皇とも)の御代にあたる、建保二(一二一四)年秋のことである。怪しく光る謎の物体が夜な夜な宮中に飛来し、順徳天皇の皇女の一人が病床に臥せってしまわ

【愛知県の皇室伝承】11.景行天皇の皇子「大我門別命」の御墓? 「行明神社」の古塚(豊川市)

1.「大我門別命」の御墓か? 行明神社の古塚 日本三大稲荷の一つとして挙げられる豊川稲荷で知られる愛知県豊川市。その南部の、豊橋市との境界に位置する行明町に、行明神社というお社が鎮座している。  明治時代中期に刊行された『三河国宝飯郡誌』によれば、江戸時代初期の慶長七(一六〇二)年に津島牛頭天王を勧請したことに始まり、明治五(一八七二)年に素戔嗚神社へと改めたそうだ。現在の社名に改めたのは大正時代のことだという。  さて、その『三河国宝飯郡誌』には次のように書かれている。

【愛知県の皇室伝承】12.「岩屋山」由来記:三億八千万人の東夷が投げてきた巨岩を神通力で砕いた聖徳太子(豊橋市)

はじめに: 東海道の名所「岩屋観音」と伝説の数々「二川の駅を過ぎて少し行くと旅客はその右に不思議な観音像の立っているのを見るであろう。これは名高い窟の観音である」  自然主義文学の代表的作家の一人、田山花袋が『日本一周』(大正三年、博文館)の中に書いた、岩屋観音についての文章である。この観音は江戸時代、街道を行き交う旅人に篤く信仰されたという。  岩屋観音は、天平二(七三〇)年に行基が諸国巡錫の途次、一尺一寸(※約三十三センチメートル)の千手観音像を刻んで岩穴に安置したの

【愛知県の皇室伝承】13.皇后陵「絵女房塚」 夢の中で美女に逢い、姿絵を描かせて似た女を探させた天皇(岡崎市)

はじめに ~豊後の民話における用明天皇~ 人皇第三一代・用明天皇。ご在位はわずかに二年足らずで、長く「廃帝」扱いを受けていた仲恭天皇と弘文天皇が明治三(一八七〇)年に歴代天皇に列せられるまで、ご在位が最も短い天皇であった。それゆえに顕著なご業績といえば仏教の公認くらいで、他には聖徳太子の御父帝としてその名を残すばかりである。  歴代天皇の中でも影が濃いとは畏れ多くもいいがたい用明帝だが、しかし九州地方にはそんな彼が主要な登場人物となる民話が伝わっている。豊後国(※ほぼ現在の

【愛知県の皇室伝承】14.平治の乱の敗者・源義朝とともに逃れてきた重仁親王の御墓? 「王塚之古跡」(西尾市)

「王塚之古跡」関連地被葬者は誰? 皇室の方々がなぜか多々挙げられる「王塚」  愛知県西尾市は吉良町友国王塚に、「王塚之古跡」という記念碑が立っている塚がある。今となっては集団住宅地の片隅に塚の一部が残っているだけだが、かつては綺麗な前方後円墳の形をしていたらしい。  伝承によればこの塚は、「王塚」の名にふさわしく、皇室に連なるどなたかの埋葬地だという。最も一般的に語られる伝説によれば、人皇第七五代・崇徳天皇の第一皇子であらせられ、世が世ならば至尊の宝位をお承ぎになったで

【愛知県の皇室伝承】15.「御所名残」の地名起源譚:淳和天皇の第三皇子「東山親王」居住伝説(豊田市)

「御所名残」の地名起源譚: 淳和天皇の第三皇子「東山親王」居住伝説 愛知県豊田市の三河上郷駅(愛知環状鉄道)のすぐ東に、「御所名残」という地域がある。いうまでもないが「御所」とは身分の高い人のお住まいを意味する言葉である。  この地名は、かつて皇族が一帯にご住居をお構えになっていたという伝説に因んだものであるそうだ。周辺には、その皇族に関する伝承地がいくつか存在する。 御所山誓願寺  御所名残の中心部にある寺院である。伝承によれば、宮内庁の『皇統譜』には記載されていない

【愛知県の皇室伝承】17.「任瑜法親王」らが住職を務めた「大須観音」(名古屋市)

「大須観音」の住職になった皇族方 愛知県名古屋市中区大須にある北野山真福寺寶生院――「大須観音」の名で知られる――は、真言宗智山派の別格本山であり、日本三大観音の一つに数えられる。  名古屋随一の観音霊場として全国的に名高いこの寺だが、最初から今日の場所にあったわけではない。  慶長十七年に現在地に移転してくるまでは、尾張国中島郡長庄大須(現・岐阜県羽島市桑原町大須)の地にあったという。そして寺伝によれば、その頃には少なくともお二方の皇族が住職を務めていらっしゃったそうだ