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常識は普遍的なものではない

常識とは?

常識(じょうしき)は、社会を構成する者が有していて当たり前のものとなっている、社会的な価値観、知識、判断力のこと。[要出典]また、客観的に見て当たり前と思われる行為、その他物事のこと。対義語は非常識(ひじょうしき)。社会に適した常識を欠いている場合、社会生活上に支障をきたすことも多い。社会によって常識は異なるため、ある社会の常識が他の社会の非常識となることも珍しくない。これは文化摩擦などとして表面化することもある。 - Wikipediaより

Aという社会において常識とされていることは、Bという社会では非常識となる。
世界を見るとわかりやすい。日本で常識的なことは他の国では非常識だったりする。
逆に他の国で常識的なことは、日本では非常識と捉えられるケースもある。

常識を使う人の特徴

しかし、常識という言葉を口に出すとき、あたかも普遍的なもののように扱う人がいる。

「そんなの常識だろ」

という言葉は、その最たるもの。

そうではなく、

「常識的に考えて・・・」
「普通考えればわかるだろ・・・」

など

国家間という横軸の違いは認められても、世代間という縦軸は認めない人が非常に多い。

常識というのは、国によっても違うが、世代によっても違う。

それを、一括にしようとすると

「今の若いものは・・・」
「俺がわかり頃は・・・」
「昔話をするつもりはないが・・・」

などという、聞いている側からすれば
どうでもいい価値観を振りかざす結果となる。

常識の横軸と縦軸

相互理解を国家間で取り組むのならば、世代間でも相互理解を深める努力をすべきなのだ。

古いものをすべて悪と捉える若者や、常識を知らないと罵る年寄り。

常識とは、その人が持つ幻想の一つだと考える。
そうあって欲しいと願う人の願望とでも言うのだろうか。

常識とうまく付き合うために

常識は、人それぞれ違ったものを持っている。
そして、その常識のすり合わせを行うことが大切で、それがコミュニケーションだ。

しかし、世代間で語り合う場が無いので、常識のすり合わせであるコミュニケーションができなくなった。
そして、コミュニケーション不全により思い込みで語るようになり、心の乖離がどんどん広がる。

最終的には、お互いの常識のみで物事を語り合い、相手を批判するだけになってしまう。

常識は普遍的なものではない。

そこのことを心に留めて、コミュニケーションを取る努力をすべきだ。

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