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2年がかりで1日講座をつくる私なりの意味

「たかが講座」に丸二年

極めて私事ですが、3/20にリリースさせていただく「SOUNDコーチ養成講座初級編」が完成しました。

着想を得たのがコロナ禍が始まる直前の2020年2月中旬のことでしたので、文字通り丸二年を要しました。

二年もあれば、大作映画も生まれるでしょうし、建物一つくらいは立つだろうと思うと、これだけ時間がかかってしまっているのは自分の能力の底が知れているなと思ったりする自分もいます。

正直、「たかが講座」ですしね。

私は過去、個人向け講座を30コースくらいはリリースさせていただいておりますが、誰に知られるわけでもなく細々と提供しているに過ぎない状態が約20年続いています。

いずれの講座も私にとっては愛おしく、他のどこにもないものを提供できている自負がありますし、参加くださった方に少しでもお役に立てたのではないかとも思っています。

しかし、それでも「何やってんだろうな。自分は」と思うことは少なくありません。

ドームツアーとか行えるアーティストの人であれば、一日で数万人の人の中に感動を生み出せるのに対し、私は10回行っても対面セミナーであれば200人程度です。

そして、講座なんて履いて捨てるほどありますし、オンラインセミナーも含めると文字通り世界中には星の数ほどあるでしょう。

そんな中で、1日講座を2年がかりでつくるというのは、自己満足以上の何ものでもないだろうと本気で思っています。

講座をつくるのが好きだからつくるわけではないという特殊事情

そうかくと、おそらくほとんどの人は「りょうさんは、講座をつくるのが好きなんだね」と思うのではないかと思います。

もちろん、講座をつくるのは好きな方だと思いますが、「好きだからつくる」と思ったことは一度もないです。

私にとって講座であれ、書籍であれ、何をつくるにしても同じ感覚で、

「つくることになっている気がする」
       ×
「世の中にないものを生み出したい」

というものだったりします。

この「二つの衝動」はもはや、「呪い」のようなもので、なんでそんな感覚になるのかわかりませんし、その感覚が生まれたが最後、「やーめた」と放り投げることにもならなければ、「この辺でいいか」と妥協する感覚にもさせてもらえません。

そして、この感覚があるからこそ、自分なりに納得のいくクオリティのものを世の中に送り出せるのですが、その過程の生みの苦しみはなかなかにハードですし、生み出せたときにはつかの間の喜びがあっても、時代の半歩以上先を進んでしまって参加者に響かなかったり、「これはもう終わるときだ」と講座をクローズしてきたりすることも少なくはありません。

「つくることになっている気がする」という衝動と同様に「終えることになっている気がする」という衝動もふと訪れてきます。
そして、実際に終えるタイミングに来ている衝動があるものは、その時に終えるのは正しい判断だったと思えるものばかりです。

しかし、文字通り心血注いで生み出した数々のワークが、その命を全うすることなければ、陽の目を見ることもなく、その生涯を終えてしまうような感覚もあり、私の中で痛みとして残っていたりします。

構想まで1年9か月かかった末にたどり着いた産声

今回のSOUND講座は生みの苦しみという意味では、かつてない苦しみを味わいました。「二年がかりで」と書くと「ぼちぼちやってたんでしょ?」と見えるかもしれませんが、この二年間、一日たりとも頭から離れたことはなく、この一年間にいたっては仲間と2週に一度はミーティングを重ねていました。そして、構想に至ったのは昨年の11月末で、着想を得てから実に1年9か月かかっています。

この1年9か月の間は、「講座をつくる意味を感じられない自分」と「つくることになっている気がする衝動」との間で、見捨てたくても見捨てられない自分に胃や腸をねじられるような苦しみを味わい、それに上乗せするように「世の中にないものを生み出したい衝動」によって一歩も進めない感覚に首を絞められるような苦しみを味わいました。

そんな生みの苦しみの中で、講座が「産声」のようにあげた叫びは、

「いつ何時であっても未来を見据えた活動をし続けるチームを増やしたい」
「この時代を生きる人々を支えたい」

というものでした。
どうやら、このSOUND講座は、たったその二つのシンプルなメッセージを届けるためだけに私にこれだけの苦しみを味合わせてまで、世の中に生まれてきたかったようです。

と、こんな風に書くと、えらくドラマチックに表現しているようにみえるかもしれないのですが、私の中ではそうとしか表現できない感覚があります。

そして、どこまでいっても
「たかが講座」
です。

あとは、届けられることになっている「あなた」に届き、可能性の未来が築かれていくように、祈りを込めて一つ一つの活動を丁寧に行っていくだけかなと思います。

「二つの衝動」と並んで、私の中にある「祈り」

それは、

「すべての命が大切にされることが当たり前になる社会」

です。

私の活動がどんなに微力で、無力感に苛まれることがあったとしても、その「祈り」が私に「衝動による苦しみ」を乗り越えさせてくれています。

この文章自体が小さな小さなさざ波として、遠く離れたウクライナの人々の痛みにも寄り添える一助となることを祈っています。

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