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読まれる描写、読まれない描写の違いについてお答えいたします

先日描写についてnoteを書いて反響があったのですが、その中で遊行剣禅さんから素朴な疑問をいただきましたのでお答えしようと思います。

その疑問を掻い摘んで説明するとこうだ。『仲さん、あなたは書いた文章が読まれるためには描写が必要とおっしゃいますけど、世の中には読まれる描写、読まれない描写があるじゃないか。その一点がどうも納得いかない。』ということだった。

ごもっともだ。世の中には読んでもらえない描写もある。
そして遊行剣禅さんはリンク先の本文でおよそ以下の様に結論付けている。読まれる文章の描写には情緒がある。描写だけでは駄目でそこに情緒を導入すれば読まれるための突破口ができるかもしれないと。

なるほど。

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理論的に説明しても長くなるので割愛するが、そこに情緒的な表現をいれながら先人の真似をしてもその道は遠回りになるだけだ。だから一旦その考えは捨てたほうが良いと思うぞ。

名前に禅が入ってくらいだから、以下の一言で分かってもらえると思う。
情緒を目的とした文章を狙った時点で心に執着が生まれている。
捨てるべきは執着だ。

遊行剣禅さんはご自身でnoteにこう書いてらっしゃる。

個人的な好みなのだが、自分は情緒に富んだ表現は少々苦手で、読むのも書くのももっぱら感情を押さえ込んでいるような、まるで鉄を舐めているかのごときタフな表現を好む。

ほら、自分で書いてるじゃねえか。

それが好きなのであればそっちに進むといいぞ。それが正解かどうかは関係ない。あなたの心はそっちに向いているのだ。ならば嘘をついてまで文章を書かなくてよい。情緒など一切気にするな。

そして無味乾燥な表現を徹底的に磨きなおすのが良いだろう。
窓ガラスかと思うぐらい味気ない文章を書くといい。
読む人はいつかその窓ガラスの先の景色(描写)を見るだろう。
透明かと思うほどのガラス窓には読む人の心が写る。

窓ガラスだと思ったその先が鏡だったからこそ人は驚愕するのである。

以上だ。

あと風林火山みたいなペンネームだと名前が呼びにくいな。

#あなたのnote読みます #ライティング #エッセイ

ここのコメントを目にしてくれてるってことは最後まで読んでくれたってことですよね、きっと。 とっても嬉しいし ありがたいことだなー