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人間関係って、そんなに必要なものですか。

こんばんは。
nakと申します。

人間関係を若干否定しながらもこんな場所に記事を投稿するのは、
この考えを誰かに共感されたいからです。
一丁前に承認欲求はあるのだから、笑えませんね。

僕はこれまで二十数年生きてきました。
生きて来はしましたが、人生というのは割り切れないことばかりです。
巷で広く、有用だ大切だと言われているものを理解できないと辛いと感じます。
僕の人生は、本当にそんなことばかりです。

その中で、特に理解出来ないのが、人間関係です。
人間関係を制するものが人生を制すとか文句は、
耳にタコができるくらい聞きました。
世間様がそう云うならそうなんでしょうが、どうしても理解できません。

僕は、正直言って人間が苦手だし、好きより嫌いな人間の方が多いです。
誰と話していても、機嫌が良くわかって気を使うし、
日に日に自分が嫌われて行くのが最高に気持ちが悪いから。

一方世間では、人間関係のイベントがそこら中に溢れていますよね。
プライベートでは友人や恋人、仕事では社内外のビジネスパートナー。
細かく見れば付き合って結婚して、とにかく共に在ることばかりに拘る。

そうまでして人間と共に在ることは、負担ではないですか
同じ空間で一時間過ごしただけで疲れる僕にとって、それはいささか苦痛です。
結婚を例に挙げてみましょう。
まずパートナーという人間が一人、生活圏内に侵入します。
あなたとは違う人間で、万の違いを妥協(できずに悶々と)して生きて行くのです。
そして結婚の先にあるのは、出産ですね。
さらにあなたとは違う人間をもう一人増やしてしまうわけです。
子供ができたらしがらみは肥大化します。
家事と育児の配分とか、さらに揉め事の種は増えるばかり。
変に世間体ができてしまうから、下手な行動もできない。
結構辛くないですか

そういう人間同士の違いだとか、育児の大変さとかに
魅力や生きがいを見出す人間もいるそうです。
それができれば、きっと、とても素晴らしいことなんだと思います。
でも、僕はそんな風には成れません。成りたいと思いません。
那由多ある人間の嫌な点に目を瞑って、
微小な良い点に縋ることは、正直言って御免被ります

世間が僕たちに課す「適正量」の人間関係は、
僕にとっては供給過多になってしまうという、まあそれだけのことです。
なんか書いていて悲しくなってきますが。。。

人間関係を好まない僕では、通常の社会で咲くことはいささか厳しいでしょう。
それでも、咲きたいという自尊心が邪魔をするから、
こうしてネット上に文章を書いたりするのです。

少ない(大切な)人間関係以外、今はあまり要らない。
データ上でいいから、少しでも承認欲求を満たすことができればいいなと思う。

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