ファッション好きとかを「ガワ」にこだわる哀れなやつだと思ってたら俺はそれ以下だったという話

23歳という年になって未だにロースクールとかいうわけのわからない監禁施設で勉強させられている今日この頃。

家と学校との往復して、課題か司法試験のことばかりを考えさせられている毎日の中で、社会人の友人のインスタなどを見て、ふと思い返す。

高校生や学部生の頃、俺はファッションや髪形などの流行を追っかけ、
小手先だけでモテようとしている奴を心底馬鹿にしていた。

勉強ができない、運動ができないけど、他人から評価されたい、モテたいという哀れな理由で、足りない身の丈を補ったり、そうした現実から逃避するためのものが、ファッションや音楽などの「ガワ」の部分だと昔は思っていた。

おそらくこれは今も心のどこかで思っている。

俺は、中身のない、実力の伴わない人間が、自分の本質的な部分に向き合うことなく、ファッション、音楽、趣味などの表面的な快楽で人生の時間を浪費し、それを「幸せ」と語っている様が嫌いだった。

男ならちゃんと実力で勝負しろ。しょうもない「ガワ」の部分で幸せを語るんじゃない。正々堂々能力で評価されようとしろよと。

自分の考えを言語化してみると中々尖った思想で笑えてくるが、多分これは今もあんまり変わっていない。

そして、この考えが今まさに俺の首を毎日締め付けて止まない。

結局この思考方法で人生を生きていくには、他人を上回る「実力」が必要だった。大衆的でくだらない動機に基づく現実逃避的な消費行動を傍から余裕で見ていられるような、自分の存在を担保してくれる「実力」が。

そして今やその「実力」を俺は失ってしまった。
俺は俺が馬鹿にしてきた奴らと同じかそれ以下の存在になり果ててしまった。

高校や大学時代の友人はみな社会人として立派に社会に貢献し、しっかりと金を稼いでおり、ロースクールの同級生はみな俺よりいい大学から来て、俺より賢く、そして俺より努力している。

幸い俺も表面的にはコミュニケーションが取れない人間ではなかった(少なくとも俺の認識では)ので、周りの人間は救いや助けの手を差し伸べてくれることはある。

しかし、俺はその手を取ることはできない。

なぜなら、その手は、かつて俺が「下に見ていた奴に」対して差し伸べた手と同じだからだ。

結局俺がファッションや音楽などを否定したいと思うのは、勉強や運動など自分の有利なフィールドに奴らを引き戻したいという思惑からくるものなのだと思う。

そして、学生時代の友人やローの同級生が俺に差し伸べている手は、現状「相対的に劣っている俺」が社会生活や司法試験という戦場から逃がさないために、自分が優位な地位を維持し続けるために、俺を競争に引き戻すために、差し出されたものであるようにしか見えない。

世の中そんなひねくれていないことは、頭では理解している。
だが、俺の歪んだ考えが認識を歪め、行動を許さない。

そして、「実力」をなくした俺は、ファッションや音楽などの「ガワ」の世界に逃げ込んでやりたいと思うし、これは最近パチスロなどにのめりこみつつある俺の行動に表れている。

しかし、苦しい。

大衆的な娯楽に身を興じようとしても、俺の思想が俺の行動を否定する。
諦めて勉学に向き合おうとしても、俺の思想が学校での俺の存在を否定する。

結局、自分が自己否定しかできないみじめな人間になり果ててしまったことを再確認したら一周まわって楽しくなってきたところで今日は寝よう。

みじめな自分語りが誰かのメシウマになってくれたらと思います。

以上

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