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夢から醒める時

弱みをさらすことが命の危機を意味することを、私は知っていた。
しかし、弱さを隠し続けることもまた 命の危機を意味することを、私は知らなかった。

私が 例えば臆病であったり、敵対的であったり、周囲となじまなかったり、悲観的であったり、内向的・内省的であったりすることは、それが時に一般的な程度と比べると過剰であったとしても、別にそれは私がバカだからとか 間抜けだからとか 学習能力がないからとかではなくて、むしろそれは自分が過去に置かれた 一定程度の過酷さを有する環境において 身の安全を保って生存し続けるための、痛いぐらいの“学習”の結果であった。

(中略)

「ちゃんとしなさい」とはよく言われる話だ。
では、「たまには適当でいいよ」と誰がおしえてくれた?
「がんばって」とはよく言われる話だ。
では、「がんばりすぎないことも必要だよ」と誰がおしえてくれた?
少なくとも、人格が形成される小~中学生の年代において。

「約束を守ろう」ではなく「自分を守ろう」と、「高みを目指そう」ではなく「現状肯定」を、「競争しよう」ではなく「土俵から降りよう」と、「皆勤しよう」ではなく「サボろう」と、「克服しよう」ではなく「逃げよう」と、「助けよう」ではなく「切り捨てよう」と、「偉い」ではなく「偉くなくてもいい」と、「期待しないほうがいい」と、「社会適応し過ぎてもいけない」と、「身の程をわきまえたほうが幸せだ」と、一体誰がおしえてくれた?

親か、家族か、友達か、世間話か、漫画かアニメかドラマか?
おい。そりゃあ、私だって全くなかったわけじゃないよ。でも、「親か家族か友達か世間話か漫画かアニメかドラマから、言葉になっていない教えを学べる」という言葉を、私は誰からもはっきりとは聞いた記憶がない。

私は、半分投げやりな気持ちで、半分冷静な気持ちで、自分がこんなにも救いようもなく しょうもなく ダメな人間だと思わなかった。思いたくなかった。私が自分の人生の主人公であるなんて自惚れはもう捨てようと思うし、私はそんなに高尚な人材でも偉大な人間でもないわけだし、だからこそ、今 目の前にある 日々のささやかな幸せを、仲間とのひと時を、口ずさむ歌を、おいしいご飯を、あたたかい思い出を、大切にかみしめて生きてゆきたいと思う。私の目から光は消えていくのかもしれない。それでも、時々思い出したように灯る 一瞬の輝きを大切にしたいし、その目に光を宿す他の人のことを いつまでもいつまでも 大切に応援したい。いや、光のうんぬんに関わらず、きっと今生きているそれぞれの人が、それぞれの形で、生き方を選んだのだと思う。すごく勝手に、思う。

私はもう若くない。少なくとも、今までの私よりは。だんだんと、こうやって、“大人”になっていくのだと思う。これではきっと遅すぎるぐらい。今さらなぐらい。私はもう無理をしないし、無謀な挑戦もしない。それは、周りに迷惑をかけず、何より、自分を守り、自分が幸せになるために必要だからだ。そうして今、自分の過去と痛みを目まぐるしく消化している私に、耳なじみのある あの声が、あの音が、あの魂が、「夢はもう見ないのかい?」と 問いかけてくる。

2023.6.20

この目に光を宿し続けることと、無理をせず時には諦めることは、きっと矛盾しないよ。むしろそれは、いつまでも“夢”を追い続けるためにこそ、必要不可欠なものだと思う。

2023.6.21

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