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愛し、愛されること

「愛される恋愛と、愛する恋愛、強いて言うならどちらに近い?」
この質問から始まった恋話の終わりに、私の大切な友達は「愛されながら愛していく」という歌詞を紹介してくれた。

私は往々にして、曖昧な事柄が不得手で白黒はっきりつけることを好むので、恋愛の話題でも もれなくそのようなお堅い二択を提供したりする。
ちなみに私の話を思い切りしてしまえば、「愛する恋愛」に決まっている。もちろん、どちらに優劣があるとか、考えを押し付けるとかじゃなくて、私自身の生き方として、「好き」を相手任せにするなんてありえない。…いや、任せとかそんな0/100の話ではないんだけど…。難しい。すぐ白黒思考に偏っちゃうし、そのことに少しずつ気付いてすぐ内省できるようになったからこその難しさがある。すごい言葉難しいけど、少なくとも、最初はそうでもなかったけど相手に好かれたからそれに感化されて自分も好きになった、ということは過去に順番としてありえていない。私にとって、自分自身の好きという気持ちが何より大事だ。自分がはっきりと好きだと思える相手に、いかに振り向いてもらえるか、振り向いてもらえるようにどうがんばるかが、私の恋愛の焦点となってくる。

このような在り方は、自立的であり ある意味で健康的だというメリットがある一方で、行き過ぎると独善的になり、相手の存在や気持ちなどの尊厳を軽視してしまう危険性をはらんでいることが分かった。

恋愛の話から始まりはしたものの、恋愛という営みが人間関係それ自体のあり方にも通ずるせいか、上記の文章は、人間関係全体をめぐる私の在り方の本質を説明しているような気もした。

私は、自分が他者と比較してかなりの程度「独善的」「独りよがり」「一方的」であることに、少なくとも自己評価としてそうあることに ある時期から強いコンプレックスを抱き、今でもしばしば強い負の感情に襲われる。単刀直入に言えば、おそらくASD傾向がある程度あり、生育環境など後天的な影響も相まって、このようになったのだと考えられる。

今まではそのような傾向に気付く段階にも至らないことが多く、のびのびと、でも時折言われのない不安感や違和感のもと過ごしてきた。しかし、私は大学に入って、寮に入って、たくさんの仲間との関わりを通して、コミュニケーションの多様なあり方を学び、自分のコミュニケーションを見つめなおすことができた。本当におかげさまで、そのようにさせてもらうことができた。

そんな大切な仲間に対して、私は残念ながら、彼ら・彼女らの気持ちや意図を、言語以外のもっと本質的な部分、例えば表情や雰囲気、間合いなどから上手く汲み取ることが難しい。ここで注意したいのは、そんなことを完璧にできる人は誰も存在しなくて、みんな不完全で不確かなままやっているということ。でも、私は多分間違いなく、他の多くの人々より それをする能力が劣っている。
そのことに対して、今まさに涙をこぼしてしまったように、何度も負の感情に襲われ、悔しく、不甲斐なく、苦しい思いを味わった。というのも、自分にとっての大切さや必要性が薄い人の気持ちなら、別に無理して汲み取りたいとは思わない。しかし、大学や寮で出会った人、あるいは小・中・高から長い付き合いがあって大事な人の気持ちは、なるべく大切にしたい。分かりたいと思う。無意識に踏みにじることをしたくない。「自分にとって大切か」で態度を明確に分けてしまうこのスタンスですら「独善的」なのかもしれない。でも、いきなり変わるのは難しいから、そこはいったん保留にしておきたい。まずは自分の大切な人の気持ちを大切にできるように、この2年間でやってきたように、コミュニケーションについてさらに学習して成長したい。後天的にでも、向いてなくても、少しずつでも、「うまく汲み取る」力を身に付けていきたい。また同時に、苦手なことをカバーすることに限界やコストパフォーマンスの悪さがネックになるならば、私の得意な「言葉」で、みんなが「汲み取る」やり方とは異なるかもしれないけど、自分なりの方法で、誠意を伝え、気持ちを分かろうとすることに努めようと思う。

ここまで書いてみて、読み返してみて、周りの仲間がかけてくれた もういくつかの大切な言葉が思い出される。一言一句は覚えてないけど、そんなにバカ真面目にやる必要はないとか、頑張りすぎないで良いとか、完璧に傷つけないなんてありえない、お互いある程度我慢し合ってやっていくこと、自分の管轄外のことを気に病んでもムダであるとか、うまくまとまらないけど、その一つ一つが私の凝り固まった思考を解きほぐしてくれるような、そんな言葉。なんというか、あくまでも無理せず、義務感というよりは 自発的でポジティブな動機の範囲で、やっていければと思う。

「コミュニケーションや関係性は、必ず相手ありきのものである」と、これまた大切な友達がかけてくれた言葉は、私の独善性への戒めになるとともに、人間関係の難しさの原因を自分自身に求め、何かと窮屈な思いで必死に適応しようとしてしまいがちな私の顔を上げさせ、大きな救いとなってくれるものである。
0/100なんかじゃない、白黒では分けられない、二択に終始しない、ある意味で曖昧な、ともに溶け合い、支え合うような人間関係のあり方を、「愛されながら愛していく」やり方を、私はこれから、少し覗いてみたいと思う。

2023.3.17

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