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帰省

早く大人になりたいと思った。

やけに狭くて小さい「自室」に何を思うだろうか。
かつての命綱であった散歩道に何を思うだろうか。
3年間お世話になった駐輪場は、使い勝手が変わっていた。
昨日まで側にあったかのような布団に、朝食に、両親の声に、何を思うだろうか。

夏に帰った時には、もう少し自然だったのになぁ。東京と自分との間に、はっきりと自覚可能なずれを感じた。
「時計の針は、日々は、止まらない」
この地から自分自身がずれて、浮いて、引き裂かれるこの感覚は、ある一点で行き先を分かつ、二つの路線のようだと思った。

京都での9か月は私を変貌させた。
あるいは、19歳になってからの4か月は私を変貌させた。
はたまた、寮祭を経ての1か月は私を変貌させた。
ないしは、本を手に取ってからの数日間は私を変貌させた。
実家に到着してからの18時間。父と話してからの3時間。マックから帰宅した後の1時間。「京都」の文字を書き始めてからの十数分。この行を書き始めてからの十数秒。数秒。,(コンマ)数秒。
今この瞬間までもが、私を変貌させる。

人生を早回しで駆け抜けすぎて、脚がもつれそうだ。密度の高い日々を引き受けるこの身が、今にもはち切れそうだ。思考と感情の津波は私を飲み込みそうだ。食われそうだ。千切られそうだ。抉られそうだ。刃物を中途半端に押し込まれ、悶え、苦しみ、「早くラクにしてくれ」と血眼ですがる者の気持ちを、つい最近知った気になったような気がした私は、窓辺で、ふと、
「長生きはできないかもしれない」と感じた。


荒れた青春の海は厳しいらしいけれど、明日の岸辺なるものは存在するだろうか。たどり着いたら「有る」と分かるが、たどり着かなくても「無い」とは分からない。無の証明は困難である。人生に背理法は使えるだろうか。
数と、人と、真理。
「有る」と信じ続けることが可能なように、希望を持ったままいられるように、人間が生きていけるように、無の証明は困難な仕組みになっているのかもしれない。
…とにもかくにも、燃費悪めな夢の舟は、必死に進み続ける。

目を見開いているうちに、様々なものが見える。
耳を澄ましているうちに、様々な音が聞こえる。
あらゆる物事の共通点。あらゆる人間の共通点。みんなが言ってること、やってること、思ってること、どれも同じじゃん。繰り返し、再生産、飽和。達観、諦念、逃避。中身がどれも同じだからこそ、外側の差異を、個性を見つめて、言葉で、物質で、何か可視化された形で、他者に向かって、自分で表す力が何より大切だと思った。抽象と具体をたゆたって。

あたまとからだの著しい乖離を感じる。
来週は何をしようかな。後輩はギャルじゃないといいな。あの人が遠くなりそうだな。あの発言はまずかったな。昔と同じ箇所や違う箇所があるな。笑われたな。笑われちゃうな。恥ずかしいかもな。あれが欲しいな。これはいらないな。あーあーあー。

一つ確かなのは、私は音から言葉へとシフトする。もう一つ不確かだけど、私は真面目ではなくなる。「いったん」「また戻る」と言い訳するけど、本当は二度と戻れやしないことを知っている。一直線ではないけどね。360°、どこでも行けるようにありたい。

何が真っすぐだ。もうぐにゃぐにゃだ。
何が真っ白だ。もうどす黒いさ。
だから、降りかかる痛みとこころと偶然と必然を抱きしめて進め。

最高速度の今年が終わる。

2021.12.30

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