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譲りたいもの

「譲れないものがある。 譲った先に手に入れられる 幸せや あたたかさもある。わたしはかんたんに譲ることはしない。 自分で納得して、決めたいから。

もうすこし、時間を下さい。」

2年という少しの時間が経ったいま、この言葉に応えるような形で 自分の想いを言語化しようと思う。

そんなにかしこまってみると、うまく言葉が出てこなくて困ったものだが、結論から言うとすれば、私は、「譲りたい」という感情を覚えることができた。

私はプライドや理想が高く、それに伴って生きるコストも高いということは周知の事実だが、それでも、少しずつ、数え切れないほどの妥協を繰り返して、"生きるコスト"を減らしていく日々である。
苦しい作業だ。「1mmたりとも妥協などしたくない」という 自分のもともとの志向性、すでにそのように成長し終わった人格を、莫大なエネルギーを加えて、妥協の方向へもっていかなければならない。
痛みを伴うプロセスである。自分のダメなところと、「できない自分」と、目を背けず向き合うことが、簡単であるわけがない。
この段落の以上の文章に対して、「完璧主義を完璧に矯正するという理想の高さが、結果的に生きるコストを増加させている」などというメタ的な視点からの循環論法のようなものを指摘されうるとしたら、私はもう笑ってしまうほかない。いつだってそんなもんだ。
自分の頭だけで考えて ロクなことになった試しはない。私は、より苦しく、より悲観的に、より視野が狭くなるように、認知が歪んでしまっているのだから。それが「ストイックさと用心、集中」という形で、良きように実を結ぶことだってあるけどね。

自分の頭だけで考えてロクなことにならなかった時に救いとなってくれるのは、いつだって他者のことばと、存在と、彼らと過ごす時間、あるいはその刺激から新たに学び取った教訓である。私はそのような他者、仲間と、彼らと存分に関わる土壌があることに、最大限の敬意を払い、感謝し、恩返ししたいと思う。私はその性質上、外交的・利他的な意識をもつことが難しい。しかし、「私にとって大切な人を、私も大切にしたい」というこの想いが、自己中心的な私にとって 精一杯で最大限の、他者への心の向け方、心の開き方である。

私は少なくともいま、自分のことについて悩む時間を削減し、他者に心を向け、行動に移すことに より多くのリソースを割いた方が幸せだと考える。そのような環境下に身を置いている。大学に入るまで、正直、「しょーもないやつらのために 振りまいてやる愛嬌も 合わせる必要も 使ってやるエネルギーもない」とどこかで思っていたし、今もめちゃめちゃそうなんだけど、私はいま、こんなに偏屈な自分でも、もっと関わりたいと、時には多少の無理をしてまで言葉を交わし、時間を共有したいと思える、そう思わせてくれる、素晴らしい人たちにたくさん出会えて、きっとこれからも 出会うことができる。

生きるコストを減らす工夫をし、その分パフォーマンスを向上させることができれば、他者にもっと還元できる。貢献できる。恩返しできる。あるいは自分自身のためでも、やりたいこと、大切にしたいもの、磨きたい力のために、時間と手間を回すことができる。

…とまぁ、言ってはみるものの、そんなにうまい話はない。実際、4月5月に全く同じ種の無双状態に陥って、その反動でまた"自閉的"になって、いまは ライブとかいう麻薬のおかげで また一時的に無双状態を引き起こしているに過ぎない。しょーもないことに悩むっていうのが私の通常運転で、それは必要経費で、そんなに簡単に忘れられたら悩みじゃないし、そんなに簡単に捨てられたらプライドじゃない。そんなに簡単に脱ぎ捨てられたら 私じゃない。「譲れないもの」は往々にして、傍目から見たらただの無駄なコストだけど、他でもない私自身にとっては、何より大切なこだわりで、生き様で、私そのものである。だから、頑なな私をことさらに卑下する必要は きっとない。

あたりまえの話かもしれないけれど、調子の良い時と悪い時を、何度も何度も往復して、同じようなことを繰り返しながら生きて、それでも、少しずつ少しずつ、成長していく。生き方が身についていくのだ。それはきっと、「矯正して身に付けなきゃ」と躍起になって無理するのではなく、日々の小さな実感を積み重ねて、気付いたら 身に付けることができる。

私は大切な人のためなら、プライドの1つや2つや3つ、いや、きっといくらでも譲ってみせよう。「どうぞ」と譲れる人たちと、たくさんの幸せや あたたかさを築いてゆきたい。

2023.6.11-12

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