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初心者でも読める歴史小咄①

こんばんは。井上ヘノシタです。
小学生の頃から城が大好きで、大学では中世史を専攻していました。少し時間があればGoogle Mapで「史跡」と検索して石碑やら古墳を見に行ったり、Wikipediaで歴史上の出来事をへーふーんと読んでいる僕が、フワッとした知識の方でも読める歴史上のヘンな出来事をお話しします。


駿河・遠江(今でいうほぼ静岡県)の守護大名(要するに県知事)で、京都へ上洛(京都にいる天皇に尽くし、認めてもらうためですね) しようとしていた「東海一の弓取り(要するに超強い)」こと今川義元を討ち取ったのが、尾張(愛知県)の21世紀枠・織田信長。そんな超〜ジャイアントキリングな戦争のことを現代では、いわゆる桶狭間の戦いと呼びます。1560年のことです。

 織田勢は酒宴に興じて酔いつぶれた今川勢を夜間に急襲して義元を討ち取ったとされていますが、実際に義元の首を落としたのは毛利新介良勝(しんすけ よしかつ。義元の必死の抵抗で足を斬りつけられたとのこと。痛すぎる)ですが、今川義元に一番槍をつけたのは服部小平太一忠(こへいた かずただ)です。(なんと小平太は義元に斬られ、指を失ったとのこと。痛すぎる)

 大将の首は通常、超〜レアなので討ち取ったらめっちゃ褒められたり出世します。二人も例外ではなく、勇士揃いの「母衣衆」に選抜されました。
毛利新介はその後、あんまり表舞台には出てこないのですが、服部小平太は伊勢国の松坂城主にまで出世します。あんまり的確ではないけど、今でいう市長って感じですかね。ざっくりしたイメージで捉えてくださいお願いします。

 織田信長が本能寺の変で部下の明智光秀に襲われ亡くなったあと、実権は羽柴秀吉に移りました。この羽柴秀吉が中四国・九州・関東・東北などかなりの面積を平らげ、そして朝鮮も侵略したりとやりたい放題の天下人になりました。
この羽柴秀吉の後釜とされていたのが、羽柴秀吉の養子だった羽柴秀次。一族経営企業の御曹司のように、異様なスピードで出世し名実共に日本のナンバー2となっていました。
そして服部小平太は、経験に乏しい秀次を部下としてサポートすることをすることを命じられます。要するに異動ですね。ただこれは出世ルート!秀次が天下人になったとき重用される未来しか見えん!秀次しか勝たん!

しかし世は戦国。そう甘くはいきませんでした。
絶倫老人・秀吉に待望の実子男児が産まれたのです。後に豊臣秀頼となる赤子ですね。別に実子が絶対に跡継ぎになるというルールはないのですが、人間どうしても血の繋がった子の方が可愛いもの。産んだ淀君も秀吉の愛妾だったので、秀吉による秀頼贔屓は更に加速しました。

 困ったのは秀次です。どんどんと肩身が狭くなり居心地が悪くなってゆきました。そして秀次はなんと、謀反(クーデター)を起こそうとしたとして秀吉に処刑されてしまいます。北朝鮮みたいですね。謀反の意があったかどうかはわかりませんが、とにかく秀吉としては秀次は邪魔になったということだったのでしょう!ヒドすぎる。
そして秀次の家族や部下も、有無を言わさず殺されてしまいました。その中には長年織田・豊臣政権のために身を粉にして働いてきた服部小平太の姿も、、、1595年のことでした。
いつの時代も盛者必衰。儚いものです。

それだけで話は終わりません。
同じ時代、そんな服部小平太に、名前がそっくりな一人の男がいました。服部小平次といって、もとは近江(滋賀県)の土豪(いい説明ではないですが、今でいう市議会議員って感じかな?ざっくり捉えてね)から、桶狭間の戦いあたりで織田信長に従い、その後織田信長と同盟関係にあった徳川家康陣営に移った人です。小平次は家康の元でたくさん頑張り、遠江と三河(静岡県・愛知県)に領地をもらっていました。

この静岡県というのがミソ。どこかで出てきませんでしたか??
そう、今川義元です。1568年に徳川家康が今川義元の子・氏真(この氏真が平成っ子って感じの性格でまたカワイイんです)から遠江を奪い返して以来、徳川氏の領土となっていましたが、元来今川家の土地です。斯波氏と交代しつつですが、今川氏がもう200年ほど守護職を務めていました。
200年市長が変わらないとどうなります?たぶん、すんげ〜癒着しますよね。今の価値観ですけど。なので、今川に肩入れする領民や、なんなら元々今川の元で戦ってたよ〜ってOBなんかもその土地にいるわけです。

その人たちは今川義元を慕っていて、そんなときに「聞いたか?ちゃんと聞き取れなかったんだが、[服部小平なんとか]ってやつが俺たちの殿様になるらしいぞ」と情報が入ります。

「なに!?そりゃ義元さんに槍を刺したやつじゃあないのか!そんなの許せないぜ〜ッ!!!!」領民は激昂します。完全に人違いです。
そして完全に人違いのまま、服部小平次は暗殺されてしまいました。1587年のことです。
今も墓が浜松市にあります。Googleマップで墓に添えられた説明板を見ることができますが、マップ上の記載も説明板もミスってます。面白すぎる。

Googleマップ。
正確には「服部小平次の墓」です。

 説明板。
正確には「服部小平次(中保次)の墓」です。
中保次というのは小平次の別名。小平次の家系は服部中家を自称しました。
説明の内容は、1~4行目が小平太の説明(誤り)、その後は小平次の説明(正確)です。


ちなみに、服部小平太一忠の菩提寺はこちら。愛知県津島市の雲居寺です。周辺には信長出生地とも伝わる勝幡城跡があります。


以上です!
また気が向いたら書きます〜



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