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中古マンション内見日記1 名前が恥ずかしい家

地下鉄駅徒歩6分 3LDK 67平米 築25年

 史上まれに見る中古マンション活況に湧く東京で、うっかり終の棲家探しを始めてしまった間の悪い中年が、運命の一軒に出会うまでの「内見」という名の流浪の旅日記を始めていこうと思う。

閑話休題。

内見に行く前からこの物件には一つ懸念点があった。物件名が恥ずかしい。日本のマンションの名前は思わず聞き返してしまうような不可思議な、あるいは大げさでこっ恥ずかしいものが多いと常々思っているが、まさにそんな物件であった。それでもれっきとした有名デベロッパーの手によるものであるのだから驚きだ。
 築25年。そしてびっくりするほど安い。その安さに目がくらんだ私は「築年数が経っているが、むしろ好景気の時代に建てられているぶんはしっかりしているのでは」と都合よく解釈しながら物件を訪れた。常に不安と悲観をいだきながら生きてきた中年ではあるが、こんなときはなぜかポジティブシンキングである。
 そしてエリアも魅力的だ。そしてそこそこ広い、そこそこ古くない、ぱっと見そこそこ清潔。何かと「そこそこ」なマンション。そんなところもそこそこな私にお似合いだろうと思ったのである。しかし驚いたのはライバルたちの反応である。物件情報が出てから秒で内見を予約したにもかかわらず、私の内見順は二番手だった。さらに速く内見希望を出した俊敏な先客がいたのだ。なにかの競技なのだろうか。本当に最近の中古マンション業界は初動が早いものが勝つ。長引くテレワークの影響で「いまこそ持ち家を!」とばかりに若い夫婦やファミリーは脊髄反射で家を即決する。もちろんローンが通ることは必須条件だが、それを払えるのかは深く考えることはしないという。失敗しても大丈夫。だって若いから! …正直言って羨ましいことこの上ない。若いって素晴らしい。そして「マンションは一生の買い物」とか「一生に一度は夢のマイホーム」などという情緒の時代は過ぎ去った。令和の東京ではマンション購入は早押しクイズである。

 話が脱線した。
 前の内見者(まさに若いファミリー)が帰るのを物陰で待って(なぜ隠れなければいけないのかわからないが隠れてしまった)、不動産屋さんと待ち合わせした。関係ないが不動産業者の営業マンは一目見てわかるほどのたいそう立派なオネエだった。
 そして物件の玄関の扉が開くと白髪交じりソバージュの60代手前の奥さんが迎えてくれた。不思議なセンスのアップリケ付きエプロンをしている。内見でここまで自然体でいられるということもすごいことだ。彼女いわく、夫には出かけてもらったとのこと。社交的で明るい妻に、人見知りのオタク夫。ロボやCDがぎっしり置かれた棚からはそんな夫婦像が浮かび上がってきた。猫好きらしく、居間のケージには閉じ込められた長毛の毛玉…いや、猫が恨めしげにこちらを凝視していた。
 間取りは3LDK、60平米台後半。…のわりに荷物が多く狭く感じた。「晴れた日には富士山が見える」という触れ込みのバルコニーからは悪天候のため富士山は見えず、住宅街の向こうに遠くの焼却炉のえんとつが屹立していた。晴れてない日には富士山でなく、えんとつが見える。ところで「富士山が見える」を売り文句としているマンションは多いが東京では、ちょっと地形の高い部分に立つマンションなら富士山は普通に見えるのだ。

 長所としては収納が多い。しかし25年住んでいるという夫婦の荷物はその収納の多さを帳消しにするレベルで多かった。「部屋の広さ、盛ってませんか?」と確認したくなるほど、その荷物で部屋は狭く感じられた。そして25年間リフォームしたことがないという壁は部屋中茶ばんで、風呂も古めかしかった。というかまず風呂を洗ってほしい。壁の総張り替え100万+風呂入れ替え80万といったところか。
 そして何より共用部分が暗い。黒ずんだコンクリート打ちっぱなしの壁はどこかじめじめとした印象を私に残し、原色があしらわれた共用部は90年代の残り香を漂わせていた。TKサウンドが聞こえてきそうだ。

 この日は内見客が立て込んでいるということではやばやと強制退去。振り返ると営業マンは次の内見客とすでに挨拶を交わしていた。そこにいたのは60数平米の家に住むとは思えない大家族だった。

 60数平米の3LDK。全体に小刻みに部屋が区切られたこの物件は部屋の一つ一つが狭い。帰宅してから気づいたことだが、あの部屋に我が家の家具はことごとく入らないという事実だった。家具買い替えプラス50万…。つまり物件価格+230万円は観ておかなければいけない。と考えるとすでに割安な買い物とはいい難かったが、さらなる内情が判明。来年大規模修繕を予定しているこの物件は、来年から段階的に(しかしながらまあまあの額で)修繕費を増額していくことになっているとのことだった。階段でいうと二段抜かしくらいの勢いで増額する。こうなると安い買い物でもなんともない。気持ちが急速にしぼんでいくのを感じた。

 帰りぎわ営業マンに「申し込みされるんでしたら、早めにご連絡くださいねっ」と冷たくあしらわれたが、彼は翌日しおらしい様子で我々に電話をしてきた。思ったより反響が芳しくなかったのだろうか。しかし数日して、この物件情報はネット上から姿を消した。おそるべし、人気エリアの駅近物件。購入したのはあの大家族だろうか。


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