見出し画像

【不幸の元凶】ケチだと不幸になる理由

最後に結論をまとめていますので、忙しい方はそちらだけをご覧ください。

本記事では、下記のような内容を解説していきます。

  • 幸せになるには「○○の精神」を育てる

  • この世に「○○」はない

  • この世のものはすべて「○○」

  • 執着によって「○○」になる

  • モノもお金も「○○」のためにある

  • ケチと節約の違いは「○○」かどうか

  • 収入の半分は「○○」にまわし、4分の1で生活する。残りの4分の1は「○○」する

  • 「○○」を持てば無理なく記憶できる

今回の教養は下記の書籍を参考に、不幸の元凶である執着について解説していきます。

アルボムッレ・スマナサーラ「執着しないこと」(中経出版、2014)

https://amzn.to/3vZfVn4

著者のアルボムッレ・スマナサーラ氏はテーラワーダ仏教(上座仏教)長老であり、著書80冊以上の著述家でもあります。スリランカ出身で13歳のときに出家し、現在は日本テーラワーダ仏教協会で初期仏教伝道とヴィパッサナー瞑想の指導に従事しています.

不幸の原因は全て「執着」

執着はあらゆる不幸や苦しみの原因です。

なにかに執着すればするほど楽しみは失われ、苦しみばかりが増えていきます。

お金やモノへの執着により苦しむ

わかりやすいところでいえば、お金やモノに執着して不幸になるケースでしょう。

お金を稼ぐことばかりに時間や労力をかけすぎてしまい、家族や友達との時間や健康、仕事以外の趣味を疎かにしてしまうのです。

また、食費や家賃を切り詰めてブランド物のバッグや服にお金を注ぎ込んだり、モノにお金を使いすぎることで生活が崩壊するケースもあるでしょう。

もちろん、趣味に適度にお金を使うことは人生を彩りますが、執着にまで至ると人を不幸にするのです。

健康に執着して健康を害した私

お金やモノなど具体的なものだけではなく、抽象的な概念に対する執着もまた私たちを不幸へと導きます。

例えば、私は「健康」が何よりも好きで、食べるものや運動習慣、睡眠の質・時間、生活リズムにかなり気を使っています。「健康のためなら死ねる」くらい好きです。

しかし、一時期「健康的な生活」や「健康的な食べ物」に執着するほど気を配っていたため、返って下記のような状態に陥り、精神が疲弊してしまいました。

  • 少しだけお菓子を食べて罪悪感を感じる

  • 少しだけ夜更かしをして後悔する

  • 事前に決めたリズムで食生活ができずにイライラする

  • 定期的な運動をサボって焦燥感を感じる

これでは健康を気を配っていながら、健康を害しているようなものです。

無執着の精神を育てる

このような苦しみから抜け出すには、執着を手放すしかないとスマナサーラ氏は語っています。

そして仏教の創始者である釈迦も下記のように語りました。

「何ものにもとらわれない、無執着の精神を育てなさい」

この世に「私のモノ」は存在しない

とはいえ、釈迦に「無執着の精神を育てろ」と言われても、執着を簡単に手放すことなどできるのでしょうか?

正直、私もお金が欲しいし欲しいモノはたくさんあります。執着だらけです。

しかし、私のような凡人でも、悟らずとも執着を少しずつ減らしていくことはできました。

その方法は、「私のモノ」という所有の意識を徐々に薄くしていくというものです。

私たちは意識する・しないにかかわらず、何かにつけて「これは私のモノ」「あれを私のモノにしたい」と考えています。なにかを買う際は、お金を払って買うことで「自分のモノ」にするのです。

しかし、よく考えてみてください。

この世の「私のモノ」と呼べるものはあるのでしょうか?

「私のモノである」と証明できますか?

今、あなたがこの記事を読んでいるのはスマートフォンかタブレット、もしくはパソコンでしょうか?

仮にあなたがiPhoneでこの記事を読んでいるとします。そのiPhoneは「あなたのモノ」ですか? おそらくほとんどの方は「自分のモノ」だと答えるでしょう。

しかし、それは何をもって「あなたのモノ」なのでしょうか?

お金を出して買ったから?
自分が使っているから?
自分で手に入れたから?

また、そのiPhoneが「あなたのモノであること」を証明することはできますか? たしかに、法的に所有権を証明することはできますね。しかし、その法律が「正しい」と証明することはできますか?

「法律は内閣と国会によって作成・成立するから正しいんだ」

という主張もできますね。では内閣と国会が正しいと証明できるのでしょうか。このように突き詰めていくと、「私のモノ」も無ければ「正しさ」も存在しないことがわかります。

全ては「借り物」

スマナサーラ氏は、この世には「私のモノ」は1つとして存在しないとしています。

もちろん、自分の身体も、心も「私のモノ」ではありません。なぜなら、これらを100%完璧に自分で管理することはできないためです。

さらに、私たちは死にゆくとき、何一つ「私のモノ」を持ちません。この肉体も、知識も、お金も、家族も、友達も、すべてこの世に置いていくのです。

この「この世に置いていく」ことについて、スマナサーラ氏は「この世にお返しする」という表現をしています。その理由は、この世のものはすべて「借り物」だからです。

お金も、人間関係も、肉体も、全ては死にゆくときにこの世にすべて返却するのです。

執着によって「ケチ」になる

執着によって人は、「物惜しみ」という状態に陥ります。

「物惜しみ」とは、つまり「ケチ」のことです。

あらゆる物に対して「私のモノ」と考えることで、他人に使わせず、自分でも使わずに、箱に入れて押入れのなかに隠しておきたいという気持ちを指しています。

または、自分で使うのは良しとしても、他人には使わせたくないという気持ちです。

このような「ケチ」または「物惜しみ」の状態に陥っている人は、思考が暗く、排他的な傾向があります。

仏教の世界ではこのような排他的な思考を、精神的な病気の1つとして扱っています。この「ケチ」という病にかかると、自分自身の手で自分の幸福を遠ざけ、不幸に陥ってしまうのです。

「使う」ために「借りる」

前述したように、この世のものは全て「借り物」です。

では、なぜ「借りる」のでしょうか? それは、「使う」ためです。

例えば、あなたが旅行先でレンタカーを借りたとしましょう。借りた車を「使うのはもったいない」と言って乗らず、駐車場に駐めておきますか? そんなことはしませんよね。

レンタカーを借りたのは、旅行先で自由に移動して楽しむためです。

レンタカーに限らず、高級な包丁でも同じでしょう。「高級だから使うのはもったいない」と言って、箱に入れて戸棚にきれいにしまっておいても、何の意味もありません。

どれだけ高級であろうと包丁は食材を切って美味しい料理をつくるためにあるのです。

そして、私たちが執着しがちなお金に対しても同じことが言えます。口座残高の数字が増えていくのは見ていて気持ちがいいですよね。

しかし、お金は使って初めて価値が生まれるものであり、欲しいモノを買ったり夢を叶えることのほうが数字が増えるよりも嬉しいはずです。

「借り物」は使って「お返し」する

「ケチ」な人は自分を不幸にします。

モノやお金を「自分のモノ」と考えるのではなく、「借り物」として考えてしっかり使ってあげましょう。モノとして役目を果たしたら、「お返し」しましょう。

モノは使うからこそ、私たちを幸せにします。モノを使う効用は、私たちを幸せにすることなのです。

さらに、モノを使う際にさらに幸せになるポイントは、自分のためだけではなく、誰かのために使ったり誰かと共有して使うことです。こうすることで、自分一人で使うときよりもずっと幸せになれるでしょう。

例えば、美味しい食べ物が手に入ったときは、自分で独り占めするのではなくみんなにご馳走したほうが良い気分になれます。

「節約」と「ケチ」の違い

ケチな人が「自分は節約をしているんだ」と言い訳をすることがありますが、「節約」と「ケチ」はどのように異なるのでしょうか?

スマナサーラ氏によると、節約とは「自分の命を維持するために必要な量の資源を使いつつ、その資源を決して無駄にしないこと」とされています。

例えば、私たちは生きていくために酸素を必要としています。しかし、酸素を吸い込む権利は、あなただけのものではありません。他の人や他の動物にも酸素を吸う権利があります。

そこで、自分の身体に必要な量だけ酸素をいただくのです。しかし、ケチな人の場合は必要以上の酸素を欲して、他人に使わせないように大事にしまっておこうとするでしょう。

「お金」というモノへの執着

現代社会において、私たちが最も執着しているモノは「お金」です。

簡単にいうと「お金がすべて」という風潮の世の中になっています。もちろん、お金は大切なものであり、必要なものです。

しかし、お金に執着しすぎるがあまり、人間がお金の奴隷のようになっている気はしませんか? あまりにも多くの人が、お金というモノに執着しすぎているのです。

スマナサーラ氏はお金に執着することはよくないとしています。なぜなら、他の「モノ」と同じように、お金も使うことによって私たちは幸せを感じられるためです。

釈迦が語るマネーリテラシーとは

仏教の創始者である釈迦は、お金についてこのように語っています。

「収入の半分は投資にまわし、4分の1で生活しなさい。
残りの4分の1は貯蓄しなさい」

ここでいう「投資」は、いわゆる株式投資や不動産投資のことではありません。自分の成長のために使うことや、自分の家族が生活できるようにするために必要な準備をすることです。

しかし「4分の1は貯蓄しなさい」という釈迦の教えは、ここまで見てきたような「大事に持っているのではなく、使うべきである」という考え方とは異なりますよね。

なぜ、釈迦は貯蓄を推奨しているのでしょうか?

釈迦がいう貯蓄は、自身の「欲」を満たすためではありません。釈迦の有名な教えの一つである「諸行無常」にあるように、この世は常に変化しています。つまり、明日ですら何が起こるかわかりません。

そして実際に何かが起こったときに、家族や友達が頼りになるとは限りません。だからこそ、何かあったときのためにある程度の貯蓄は必要なのです。

しかし、お金は特別な存在ではなく他のモノと同じように、結局は「借り物」です。自分が一生懸命働いて稼いだお金であっても「私のモノ」ではあありません。お金は「この世のモノ」なのです。

「知識」への執着も人を不幸にする

私たちが執着するのは、形あるモノだけではありません。

「知識」もまた執着の対象になります。私は本を読むのが好きですが、一度読んだ内容をすべて覚えておきたいと思うことがあります。

しかし、これこそ「知識」への執着であり、不幸への第一歩なのです。

「知識」は私たちが生きる上では欠かせません。さらに、「知識」は人生を楽しく彩るものでもあります。

とはいえ、だからといって「知識は多ければ多いほど良い」というわけではありません。知識が増えすぎると、人は傲慢になるためです。

「私はこんなことまで知っているんだぞ」と周囲の人間に対して自分の知識を誇示するようになります。そして、やがて「私こそ正しい」「私は完璧だ」と気持ちが強くなっていきます。

知識がありすぎるとシンプルに生きられなくなる

さらに、知識がありすぎるとシンプルに生きることがむずかしくなります。

たとえば、知識がある人が問題に直面すると、知識に頼ろうとしますが思い出すだけでも一苦労です。

さらに、「この方法はどうだろう、いやこっちのほうがいいかもしれない」と余計なことを考えすぎてしまい、人生をややこしくしてしまいます。

一方で、知識がない犬や猫をみてください。彼らは餌をあげるだけで純粋に喜んでくれます。知識がない分、物事にへの対応もとてもシンプルです。おそらく、犬や猫は人間が感じるような悩みやストレスとは全くの無縁でしょう。

緊張感をもって覚える

「とはいっても、勉強をしても忘れるのは嫌だ」

と考える方もいるかと思います。そのような方は、緊張感を持ってみてはいかがでしょうか?

スマナサーラ氏は、記憶においては緊張感が大事だとしています。

「これは自分にとって絶対に必要なことだ」という緊張感を持っていれば、無理に覚えようとせずとも記憶できるものです。

スマナサーラ氏が学校に通っていた頃は、本やノートを買うお金がありませんでした。もちろん、当時はスマートフォンもありません。つまり、授業に出ても記録することができなかったのです。

そこでスマナサーラ氏がとった行動は、授業で教わったことをその時間内でまるごと理解することでした。誰とも話をせずにひたすら耳を傾けていると、ふしぎなことに講義内容が無理なく頭に入ってきたと語っています。

必要なもの、好きなものは自然と覚える

結局、記憶というのは無理して覚えるものではなく、必要なものや好きなものは自然と覚えられるものではないでしょうか。

例えば、アイドルグループが好きな人はメンバーが何人いようと、メンバー一人ひとりの顔と名前を無理せず覚えます。興味がない人からすると、全員同じような顔に見えようと、です。

また、あなたも好きなことや趣味に関するものであれば、自然と覚えているのではないでしょうか? つまり、なにをやっても覚えられないようなことは、今のあなたには必要のない情報なのかもしれません。

まとめ

  • 無執着の精神を育てる

  • 「私のモノ」という所有の意識を減らす

  • この世に「私のモノ」はない

  • この世のものはすべて「借り物」

  • 執着によって「ケチ」になる

  • ケチな人は思考が暗く、排他的な傾向がある

  • ケチな人は不幸になる

  • この世のものは「使う」ために「借りる」

  • モノもお金も「使う」ためにある

  • 自分のためだけではなく、誰かのために使う

  • ケチと節約の違いは「必要な分だけ無駄なく使う」かどうか

  • 収入の半分は投資にまわし、4分の1で生活する。残りの4分の1は貯蓄する

  • 知識が増えると人は傲慢になる

  • 知識が多いと人生がややこしくなる

  • 緊張感を持てば無理なく記憶できる

  • 必要なことや好きなことは自然と覚えられる

仏教の教養」では、下記のような教養がよく見られています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?