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書籍「ブッダという男」の更に先に進みましょう

このnoteは下記の人を対象としています

「ブッダという男」という書籍を読んだ

このnoteは、この書籍を読みこなすだけの知力、読書力があるならば、この書籍を超えていく能力が十分にあるので、そのための 阿含宗開祖の書籍「末世成仏本尊経講義」  を読むことをおすすめします、という内容です。

【知力のある人は】「なんだ、単に便乗した商品広告かよ」と思ってページを閉じないでいただきたい
この先には、じっくり考えてもらいたいことを書いているつもりです。


「ブッダという男」を読んで理解して、良くも悪くも影響を受けたのならば、この書籍を読むことで、更に深い知見を得られると、確信を持ってお約束できます。

一般的には難易度が高めの内容ではありますが「ブッダという男」を読めたのならば大丈夫です。

「ブッダという男」を読んで今までの仏教のイメージが覆されて面白かったと感じた人は、このnoteの中・後半部分を読んで、この阿含宗開祖の書籍も読むことをご検討ください。もっと広範囲でイメージが覆されると思います。
具体的にはインドの仏教史、法華経や真言密教の問題点その他色々、そして仏教哲学や思想、教義の面で「ブッダという男」の主張の誤った部分や不足している部分の内容も知ることになります。
少し多めに引用をして紹介します。


「ブッダという男」は明らかに誤った理解をしている部分もありますし、「違和感がある」というところまで、こちらが妥協できる部分もあります。

例えば煩悩とカルマの関係は、ボク的には解釈が異なるのだけれども、仏教の最終的なゴールを見据えたならば、もう細かい事はどうでもいいかなと考えて妥協することにしました(笑)

このnoteの前半部分では阿含宗開祖の書籍「末世成仏本尊経講義」から煩悩に関する部分を引用して紹介します。
「ブッダという男」の著者は、仏教は煩悩を消すことを目的としていると書籍で書いていながら、仏教では人間性(つまり人格とか性格)の向上を説いていないし、そのようなことは無意味であるという趣旨のことを平気でSNSで書いている人です。煩悩を消す→結果的に人間性の向上になる、という知識の横展開ができない人です。
そんな著者本人に、何を言っても無駄だと思うけど、このnoteに縁あってたどり着いたあなたは違うとボクは信じています。長い引用ですけど、煩悩を消すとはどういうことか?という趣旨の内容ですので、是非、この部分を読んで、考えてみていただきたい。

このnoteは「ブッダという男」を読むな、という主張をするものではありません。この書籍を読んで、もし思うところがあったならば、阿含宗開祖の書籍「末世成仏本尊経講義」も読んで、更に飛躍する知見を得てほしい。
こういう趣旨です。
絶対に役に立つ知見を得られると断言できます。
その上で、また「ブッダという男」を読み返して、そして自分が信じたい方を信じれば良いと思います。


カルマと煩悩について

「ブッダという男」に書かれているカルマと煩悩の関係性には、ボクとは認識の相違というか違和感が多くあります。それについて文章にしていくと鶏と卵のどちらが先か?的な話になります。
ぶっちゃけ細かい定義は、どーでもよいので、その細かさを超える文章をこのnoteに辿り着いた読者に読んでもらって、各自で考えてもらえばいいやーという結論に達しました。(面倒くさくなって書く気力を消失したとも言う)

成仏への道は、まず、煩悩を断ち切るところから始まる。
その煩悩は、「根本煩悩」という1番基本的な煩悩、そこから流れ出てくる10種類の「随煩悩」という煩悩から成り立っている。
根本煩悩を「渇愛タンハー」と言う。激しい渇きにたとえられる強い煩悩である。そこから10種類の煩悩---「随煩悩」が出てくるのであるが、この十随煩悩を「十結」と言う。なぜ、「結」というかというと、これが、人間のこころと体と魂をかたく結束し、束縛して、自由にさせない。そこで「結」と言うのである。
煩悩を断つ、というが、これはただ単に道徳的なこころの持ち主になる、というようなものでは無いのである。儒教や倫理や道徳と、釈尊の成仏法の違いはそこにある。儒教や道徳や倫理の教えで、単に欲望をなくすというようなものではないのである。それは異質なものへの変化である。変化というより、飛翔である。
これまでの仏教が考えていたような、煩悩(欲)をなくして、道徳的に完成する、といった程度のものではないのである。釈尊の成仏法によって煩悩をなくす修行していると、異質なものへの飛翔・変化が始まるのである。少しオーバーに言うと、煩悩をなくすのが目的ではなくて(それも目的だが)それは手段なのである。文字や言葉では表現しきれないのが残念であるが、最後の瞬間に、飛翔がある。ニルヴァーナという異次元世界への飛翔である。これから「十結」の説明をするが、成仏とはただ単にこういう煩悩(欲)をなくした道徳的な変化と言うものではないことを知っておいていただきたいのである。

桐山靖雄著 末世成仏本尊経講義 P.221-222

「ブッダという男」に出てこない仏教用語があると思いますが、「ブッダという男」で伝えたいテーマの外にあるから取り上げなかったのだと思います。
このnoteでも、敢えて用語の説明はしません。
知りたい人は書籍を手にとってご確認ください!

学者さんは、文章だけを見て考えるため、お役人様たちのように教条主義に陥って手段を目的化しがちです。
実践者、修行者は、それは単なる手段であって、その先に本当の目的があるんですよと主張できます。
この違いを、この引用から読み取っていただいて、「ブッダという男」の内容のその先があることを知っていただければと思います。

法華経の問題点について

このnoteに辿り着いた人は、仏教に関心がある人のはずです。

その中には「法華経」を人生のすべてとして信仰している人もいれば、逆に目の敵にしている人もいると思います。

阿含宗開祖は宗教家として活動を開始した最初期は、法華経にブッダになるための具体的な方法があると信じて熱心に勉強しました。

7年ほどして法華経に致命的な問題があることを発見し、この7年間は何だったのかと涙して法華経から去ったという経緯があります。

このnoteでは、阿含宗開祖が涙した部分ではなくて、これで成仏できるわけないという指摘の部分を引用します。

「法華経」も、もちろん、阿耨多羅三藐三菩提の獲得を説いている。その一例を上げよう。
分別功徳品第十七、である。
分別功徳品と言うのは、この功徳品の前に説かれた寿量品第十六を聞いた人々の功徳を分別して説くので、この名があるわけなのだが、そこにいくつもの功徳があげられている。つまり、法華経寿量品第十六を聞いた人々の功徳である。
あげてみよう。曰く、

「無生法忍・聞持陀羅尼・楽説無礙弁才・施陀羅尼・転不退法輪・転清淨法輪・得阿耨多羅三藐三菩提」

これだけの功徳が得られるのである。
どのようにしてか?
ただ法華経の如来寿量品を聞くだけで、である。それだけで、そのご利益により、これだけの功徳が得られると言うのである。

-- 中略-- 

無生法忍というのは、天台大師は、十住のうちの初住のさとりとしているが、そんなことはなく、無生法というのは生滅をはなれた真如の理で、「空」そのものをさし、ニルヴァーナのたいをいうわけである。忍というのは、認可の意で、認知したということ、つまり、空を体得し、ニルヴァーナに到達しようということである。するとこれは、ほとんど、仏陀に等しいことになる。それが、ただ如来寿量品を聞いただけで、その功徳により、それが得られるというのである。しかも、ただの「衆生」が、である。

上座部系のアビダルマの論師が、大乗仏教の経典作者たちに対し、「なんじらの説は、文飾装飾の辞で荘厳口力の魔説にすぎない」と痛罵したのも、こういうところを指摘したもので、当然といわざるを得ない。

桐山靖雄著 末世成仏本尊経講義 P.156-161

この部分は法華経の用語が並びますので、詳しい方は、よくわかるかもしれません。

法華経以外にも、浄土経や真言密教の問題点なども書かれています。
引用文中に出てくる「阿耨多羅三藐三菩提あのくたらさんみゃくさんぼだい」は般若心経にも出てくる仏教用語です。
「阿耨多羅三藐三菩提」の理解が成仏の理解につながるので、書籍「末世成仏本尊経講義」のテーマのひとつになっています。
このあたり、難易度は高めですが「ブッダという男」を読めたのなら、ついてこれるのではなかろうか、と思います。

歴史的経緯から

インド仏教の発展の歴史と、その正しい経緯が中国に伝わらず、中国経由で日本に不完全な仏教が伝わり、そして今に至ることが、今では少しずつ知られてきていると思います。

単純にテーマ外だからと思いますが「ブッダという男」は、その経緯説明をふっとばして、いきなり南伝仏教の経典基準で説明しています。
わかっている人向けの書籍だからでしょう。

しかしながら、もしかしたら、この歴史的経緯を知らない人が法華経や浄土三部経を語らないことを理由に「ブッダという男」を低評価にしているかもしれません。残念ながら、その判断基準は歴史的経緯を知らないことから来る誤った認識です。
また歴史的経緯を知らないけれど「ブッダという男」を読んで自分の仏教に対する常識が覆ったという人もいるかもしれません。

阿含宗開祖の書籍「末世成仏本尊経講義」では、「ブッダという男」では取り上げていない、この重要な歴史的経緯も説明していますから、この書籍を読み、現在認識している常識をさらに打ち破っていただきたいです。
「ブッダという男」が南伝阿含経典を中心としている理由を理解できます。

龍樹は「中論」において、この「空」の思想を発表した。大乗仏教の指導者たちは、狂喜して、これに飛びついた。このグループが、仏教史上、「中観派ちゅうがんは」と呼ばれるもので、彼らは、この「空」の理論に拠って、いくつかの経典を次々と制作した。これが「初期大乗」である。般若経、華厳経、法華経、観無量寿経、維摩経などの経典である。
インドの民衆はこれに満足した。それは当然であろう。何しろ、般若、華厳、法華、観無量寿経、と、これらの経典を見てくると、まさに絢爛たる大乗仏教の布教陣である。天下万民ことごとく、この教線の前にひれ伏さざるを得なかったであろうと思われる。
だが---、意外なことに、それも長くは続かなかったのである。およそ二、三百年ほどで、インドの民衆は、(知識人も含めて)これらの大乗経典を、見はなしてしまったのである。
なぜであろうか?
これはまことに意外なことといわねばならない。読者諸君もにわかには信じられないことであろう。我が国では、今もなお、法華経、観無量寿経などの初期大乗経典が、仏教の主流として、ハバをきかせているのである。それが、インドでは一千数百年も昔に、民衆からソッポを向かれているのである。日本では、誰もこういう事実を教えないから、ほとんどの仏教徒が知らないでいる。インドの人たちに比べて、宗教に対する知的レベルが格段に低いということであろうか。
だが、なぜ、これらの経典郡が見はなされてしまったのであろうか?

桐山靖雄著 末世成仏本尊経講義 P.39-40

なぜだろうか?の続きは書籍をお読みください。
この文章は中期大乗に続き、さらに後期大乗へ向かいます。

過去のnote

煩悩の説明部分にて引用したこの部分

釈尊の成仏法によって煩悩をなくす修行していると、異質なものへの飛翔・変化が始まるのである。少しオーバーに言うと、煩悩をなくすのが目的ではなくて(それも目的だが)それは手段なのである。文字や言葉では表現しきれないのが残念であるが、最後の瞬間に、飛翔がある。

「異質なものへの飛翔・変化」の兆しが現れると、現在の阿含宗で言う「霊性開顕」という現象がおきて、神仏の存在を知覚できる霊能力が出てくるようになります。そうすると、例えば、こういうことがわかるようになります。


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