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ゆるいブログ:noteを書いてる時のこと

タイトルに「ゆるいブログ」とある時は、ゆるい内容です。
ボクは自由気ままにnoteに好き勝手に書いているのですが、完全に好き勝手というわけでもありません。

noteに書くテーマは、突然原稿案が天から降ってくることがあります。
それはお風呂に入っている時だったり、寝ようとして布団に入った時のこともあります。
あるいは、この件について書かなければいけないという「焦燥感」として急かされる場合もあります。
そうなると書かないといけないので、文章の全体の方向性を決めて、脳内で推敲しながら勤行(仏前でお祈りすること)をする。
こういう感じの内容で書きますよ、というお伺いです。

そして、実際に原稿を書くときは、御本尊様の前にノートパソコンを置いて文章を考えます。
この時、多くの場合、神仏の霊気が降りてきていて、良く言えば共同作業で、悪く言えば監視の元で、のたうち回りながらキーボードを叩いて文章化していきます。

そして「たぶん今回書かなければいけないことは書き終えたと思うんだが、漏れは無いだろうか?」と考えているうちに、スーッと霊気が帰ってしまうことがあって、そうすると「今回はこれで良い、ということですね、じゃあ、あとは全体をまとめますね」という段階に入る。
こういう状況で書いている事が大半なので、もしも大きく誤ったことを書いている場合は、必ず神仏側からのストップがかかるはず、という信念で書いてます。


ここ何回か「ブッダという男」という書籍の著者の総合的な理解力が低いので、書籍の問題点を指摘するnoteをいくつか書きました。

ある1本は、自宅ではなく、職場で仕事の合間に文章をほとんど書き上げました。最後のまとめをしようとして自宅でノートパソコンに向かったところで、ボツ判定を喰らいました。

あきらかに、これはダメという判定が下りました。
ダメと言語で言われたわけではないけれど、ダメという判定なのがわかる。
続いて、こういう思念が降りてきました。

・ボツの内容は、別のテーマの時に使えば良い
・今回は、この路線で書くべきである

「この路線で書くべきである」という思念を感じた時に、無意識で書籍を開いていたページがあって、それを書きなさいという指示と理解しました。
そういうことがあって書き直したのが、このnoteです。

「ブッダという男」という書籍の著者さんは、仏教では人格形成、人格の向上は説いていないとSNSで主張している人です。
この著者さんは、仏教では煩悩を断つということを書籍で書いているのに、人間の性格というのは煩悩から生じているのだから、煩悩を断つことで人格も変わってくるという道理が理解できないのです。

たくさんの事を知っている人だが、知っているだけで、知識の横展開、横連携、総合理解をして物事の本質を理解するということが全くできない。
そういう人の誤った主張に対して、それは違うと主張して、煩悩を断つとは道徳を超えた世界があるというさらなる主張をしなければいけない。

このnoteに縁があって辿り着いた人には、この事を知ってもらいたいという内容になっています。
読んでないという人は、是非、目を通してみてください。
プラスアルファを足して長文になってしまったけれども。

ボクが書いている一連のnoteを偶然見つけた阿含宗会員信徒さんの中には、「この人、こんなことを勝手に書いて大丈夫なんだろうか?」と思っている人もいるかもしれません。
こういうことなので、大丈夫です。

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