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「ピアノは難しい」と誰が決めたのか

※2018年9月にHP上に書いたものを転記しました。

「実は、子どもの頃ピアノを習ってました。途中でやめちゃったから、今は全然弾けないけど」

私がピアノ講師をしていた頃、度々このような話を聞いてきました。

過去にピアノを習っていたのに「全く弾けない」になったのはなぜなのか。

子どもの時分に手ほどきを受けたのなら、もっと気軽に楽しめる存在になっていてもいいはずなのに。

小学校のプールで習ったクロールを十数年ぶりに泳いだり、学生時代に少しかじったビリヤードを、再び球を突いているうちに感覚を思い出しておもしろくなったり。

それらと何が違うのでしょうか。

私は4歳からピアノを習い始めました。時は昭和50年代。多くの女の子がピアノを習い、当時は誰もが導入的教本「バイエル」を順番通りに習得していきました。バイエルの後半にもなると、多少のテクニックを要する伴奏にそれなりのメロディをのせて一人前の曲が弾けるようになります。

ピアノを習う子どもたちはよく頑張っています。左手の伴奏と右手の旋律を5本の指を駆使して同時に弾く。これだけでもかなりの芸当なのです。その上で、か細い小指で必死に鍵盤を叩いて出した蚊の鳴くような音に、もっと大きく!なんて注意される。薬指を単独で動かすことも要求される。薬指だけを上下させるなんて、不可能に近いのに。

不可能を可能にするための訓練を、毎日繰り返すよう求められ、楽しさや面白さよりも先に辛さや苦しさを味わう。そのうち一人、二人とピアノをやめていきました。気がつけば、あんなにいた「ピアノを習っている同級生」人口が激減。小学3年生くらいのことだったかな。

「練習しなかったらお母さんにやめさせられた」

「あー、私もやめたやめた!」

バイエル◯番が弾けるよ!と得意げに教室のオルガンを鳴らしていた子どもたちが、やめたことを共感し合うようになっていました。

もしもピアノが弾けたなら、楽しい世界が広がりそう。そう思って習い始めても、やめる時には、辛く苦しいものからやっと解放された!となってしまうのは、あまりにも残念です。

ピアノ教本に掲載された曲は、ほとんどがクラシック音楽を起源としています。クラシック音楽を奏でるためには、子ども向けと称した楽曲でも、結構な技術を必要とするのです。

そもそも。

クラシックから始めなければならないのか。

鍵盤を順に押していくだけで音階が鳴り、一人でもオーケストレーションを奏でられるのがピアノの魅力です。88個の鍵盤を何人かで一緒に弾き鳴らすこともできる。

だからピアノっておもしろい!楽しそう!

そう思った人に対して、「ピアノはとても難しい技術が必要だから、並大抵の努力では弾きこなせません」と、高く重たい鉄扉を閉ざすようなことをしているのではないだろうか。

もちろん、聴衆の心を揺さぶるほどの演奏は、一朝一夕で習得できるものではありません。しかし、ここで目を向けたいのは「自分が楽しむためのピアノ」。このさじ加減がピアノの世界ではとても困難なものとなり、習う人が苦行の道を歩むことになりがちです。

ピアノ教育は、そのあり方をずっと問われ続けている。

講師の教え方は果たして正しいのか。生徒のニーズにあっているのか。ピアノを習わせようと思った親たちは、どんなゴールを目指しているのか。子どもたちに、孤独で過酷な練習を強いることだけに走ってはいないか。

「ピアノは難しいし練習がつまらないから嫌になってやめた」ではなく、「満足したからピアノのレッスンを受けるのはおしまいにした」という人は、いったいどのくらいいるのだろう……

私はずっとピアノを続けてきました。自己表現。音色や楽曲を理解し楽しむこと。古くから脈々と伝わるピアノ曲の魅力。

そして、演奏そのものを愛するということ。

難しいだけじゃない。だからこそのおもしろさ。

人生に、ピアノというピースがあったことで気づいたことを綴ってみようと思います。

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