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茶道は、ものごとをひとつひとつ丁寧に扱う心を教えてくれた

20代の頃から、細々だけど8年近く茶道を続けている。初めて習った先生は、ドイツの留学先で裏千家の出張所を営むドイツ人師範だった。

先生は日本で茶道を学んで以来、30年近く茶道を教えている方で、ご自宅の地下室に自分で茶室をこしらえて教えていた。わたしなんかよりよっぽど日本文化や禅仏教について精通したお方で、ドイツにいながら日本について学び直す不思議な空間だった。

生徒さんは地元のドイツ人を中心に、国境沿いのスイスやフランスの街からも人がやってきた。お稽古はドイツ語で進むのだけど、お道具の名前はひとつひとつ「Cha-i-re (茶入)」「Hi-sha-ku (柄杓)」と、みんなで日本語で覚える。毎回の茶杓の銘を通じて、日本の季語をドイツ人の生徒さんたちに紹介するのが、わたしは一番お気に入りの時間だった。

「一盌からピースフルネスを」

裏千家は世界のいろいろな国で茶道を通じた国際親善活動を展開されている。その背景には、第15代家元の千玄室大宗匠の戦争体験がある。

戦時中大学生として海軍航空隊にいた大宗匠は、終戦直前、本人が志願して特攻隊への参加したという。仲間が出撃するなか自分には直前で待機命令が出たことにより一命を取り留めたらしい。

たくさんの仲間が命を落とすなか、なんで自分は生き残ったのか。悔しさでいっぱいだったのだが、生き残ったことが天命なら、この家元という仕事を全うして世界平和に寄与することが自らの運命と思い、「一盌からピースフルネスを」をモットーに、茶道を通じた親善活動を50年以上されている。

茶道の最も大切な精神を現した言葉に、「和敬清寂(わけいせいじゃく)」というものがある。その中でも「和」は、あらゆるものの調和と仲睦まじさ表す。

お茶室では、身分も立場も関係なく、ありのままの人間としてみんな平等に存在するのだ。

和敬清寂の精神があらゆる人の日々の暮らしで体現されたら、世界は本当に平和なところになるんだろうなあと思う。

季節の香り、音、肌触りは感覚に宿る

ドイツの大学院を終えてインドネシアに渡ったあと、今度はそこでも茶道を継続する機会に恵まれた。

先生は、戦後現地のインドネシアの家庭に嫁ぎ、それ以来50年近くインドネシアに暮らしている日本人の女性で、短い間だけど、幸いにもその社中で学ぶことが出来た。

ここの社中では日本人の駐在員やその家族の方々が生徒さんの多くで、ほんの数人だけ、現地のインドネシア人の方々もいた。誰かが日本に一時帰国した際は和菓子をお土産に持ってきて、懐かしい味ねと、味わいながら皆さんで愉しんだ。

12月といえば日本は年末の寒さが深まる頃。インドネシアでは雨季の始まった頃で、ジメジメした雨の日が多い。

それでも不思議に、お茶室で「師走」「冬夜」といった季語を聞くと、今にも雪がしんしんと降ってきそうな空、つんと鼻を通る冷たい風、どこか切ない年末の雰囲気が肌に蘇ってきた。

人間の身体は、こんなにも季節の感覚を思い出せるものなんだ

人間の感性の奥深さと、まるで時空をワープするようなお茶室の不思議な力を感じた瞬間だった。

茶道のロジックは、思いやりの世界観に成り立っている

「茶道って、ルールが多くて大変なんでしょ」とよく言われる。でも、実はそのルールの背景や意図を深く知ってみると、茶道は非常にロジカルな考えに成り立っているということがわかる。

例えば、なんで畳を歩く歩数が決まってるかというと、着物を着ていると大股で歩けないから。なんで道具をとる手が、いちいち右か左か決まっているかというと、着物のたもとが邪魔にならない動作になっているから。

そう、至って論理的なのだ。

その中でも、わたしが最も共感するのは、茶道のルールはただの決まり事ではなく、思いやりにのっとった行為の現れだということ。

茶道でお客がお茶を飲む時に、お茶碗を回していただくのはみんなよく知っている。なぜ回すのか?それはお茶碗の正面の絵柄に口を触れて汚さないようにと配慮して、お茶碗の背面から頂くため。

お客はさらに、お茶をいただいたあと、今度はお茶碗を正面に戻してどんな絵柄か丁寧に眺める。これは、亭主がこのお客を思って特別にどんなお茶碗をご用意したのかを拝見する、その思いやりへの返答の会話なのだ。

この茶道の世界観を理解したとき、わたしは一生茶道を続けたいと思ったのを覚えている。

重いものは軽々しく、軽いものは重々しく

「水の入った水差しはいかにも軽々しく持ち上げて、細い茶杓はいかにも重々しく丁重に扱う。それが茶道の心ですよ」と、よくドイツ人の先生に言われた。

大変なときにも苦しい姿は見せず、簡単なものほど気を抜かず丁寧に行う、なんて落ち着いた心の状態なんだろう。

こうしたお茶室での精神は、日常生活でも生きていると感じることがある。

昔仕事で、上司が体調不良で急遽欠席することになり、クライアントへの説明を代わりにやることになったことがある。

「どうしよう」と思いとんでもなくドギマギしたのだけど、やるしかないと思いクライアントとテーブルについた。

一息ついて、落ち着いて自分にできる説明をしようと集中しながら、ゆっくり丁寧に紙を配布する。なめらかな動作で一人一人の顔を見ながら、一言一言をしっかりと発声する。

それはまるで、お茶室で一連のお手前をやるのと同じような感覚だった。

自分が何を言うか頭で考えるのではなく、部屋全体の空気が統合されていくところに意識が向いていく。そうすると、不思議に緊張がほぐれて、身体が自然と動いていく。頭で考えずに、言葉が滑り流れ出る

とても落ち着いた心の状態だった。

お茶を始めてからというもの、緊張することがずいぶん減ったと思う。もちろんいまも緊張することはあるけど、そんなときは必ず一息ついて、頭の中でイメージするようにしている。

窯の前に、柄杓を持って正座して、コポコポと小さな音を立てながらお湯がわく、そんなお茶室での感覚を。

そうすると、不思議と呼吸が整い、心が落ち着いていくのを感じるから。

これを読んだ一人でも多くの方が、茶道の心に触れる機会に巡り合うことを願っています。


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