次の方、どうぞ(14) 匂い
「あたしほんっとにダメなんです、匂いがきついの」
通勤中の電車内で、香水や柔軟剤のきつい匂いで不快感を覚える、さらには吐き気や頭痛に襲われる、という化学物質過敏症候群が話題になって、もうずいぶん経つ。にもかかわらず、発症する人を「特殊なひと」とする世の中の動きには、あまり変化がないように思う。
それにしても、だ。
ダメなんです、と声高に叫ぶこの女からは、得も言われぬ匂いが漂っている。わたしの中の匂いの記憶をたどれば、駅前のインド料理屋と、葬式に出向く寺と、田舎のばあちゃんちが混ざったような―――エスニック風とでも表現すればよいのか、なんとも言えぬ匂いだ。これを心地よいという人も、いるにはいるだろう。が、くらくらするほどの匂いはどんなに「良い香り」でも、文字通り息苦しい。
彼女が瞬きをするたびにばちばちと長いつけまつげが動く。谷間を見せつけるような服の胸元には羽のような装飾がついていて前傾姿勢になるたびに大きく揺れる。その全てはもしかしてわたしに風を送る装置なのではないかという気がしてきた。それもこれも、本人は無意識なのだろうが。
気がつかれぬ程度に下を向き、深く息を吐く。―――しかし匂いに関しては逃げ場がない。手早く終わらせよう。
「検査、検査してください! それから診断書!匂いの検査はもう散々したの、そうじゃなくてっ」
「はい、順番にいきましょう、ナガヤ」
次々と繰り出される要望に笑顔でうなづきながら、手の平を彼女の口の前に示し、早口を遮る。が、
「あれでしょ、すぐわかる機械があるんでしょ、わたしテレビで見ました、血のついた板を入れてね」
どうも「黙って」というジェスチャーは通じなかったようだ。仕方ない。
「ピッてボタン押すとパッと表示されてね、異常かどうかすぐわか」
「ナガヤマ、サヤカさん!」
短く強く息を吸い込んで、腹に力を入れて名を呼んだ。同時にわたしは、彼女の眉間に人差指を立てる。
突然、名を呼ばれたことに驚いたように目を見開いて、早口は止まった。直後、わたしに向けていた前傾姿勢が崩れ、一気に脱力する。絶妙なタイミングで背後に控えていたマユミが彼女を支えた。
名は、呪である。・・・と誰かが言った。こんな場末の診療所に来る患者には名を偽る者も多くいる。かりそめの名であれ、生来の名であれ、その人をその人たらしめる呪であることに変わりない。その呪に同化できれば、わたしは患者の中に入り込める。
患者の背中をマユミが支えている間に、綿棒を鼻腔に差し入れる。目的の器官にあたった。これを塞ぐか、いや・・・ これを並べ替えたらどうだろう。
「時間かかります? 横になってもらいましょうか?」逡巡している時間が長かったと見えて、マユミが少しだけイラついた声で尋ねた。意識のない人間を支えるには力がいる。黙って首を振り、手早く処置を終えた。無意識のうちに声に出したらしいわたしの言葉に、マユミが問い返す。
「え?こそばいて、なんや急におくにことばて」と、口にするマユミのイントネーションが完全にお国言葉だった。
ヒトには鼻腔から延びる嗅覚神経とは別に、脳の別の場所につながる原始的な器官がある。ヤコブソン器官はもともと互いのフェロモンを感じとるための器官だったという。彼女は常にオスへのアピールを続けすぎ、受ける側の閾値が振れ切ってしまったのかもしれない。並べ替え、すこし誤作動を試みた。
「こそぶやん・・・ 関西弁みたいに聞こえる?」改めて口にしてみる。
「せんせ。世界の関西弁使用者に謝ってください、そんな変なん、似非関西弁とも言えないです」
丁寧な言葉で叱られた。今度はもっといいアナグラムを考えよう。
「次の方、どうぞ」